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秋田地方裁判所 平成3年(ワ)48号 判決 1996年2月23日

原告

松村昭作

菅幸臣

右両名訴訟代理人弁護士

山内滿

虻川高範

被告

秋田県

右代表者知事

佐々木喜久治

右訴訟代理人弁護士

柴田久雄

伊藤彦造

右指定代理人

安田幸男

外四名

主文

一  被告は、原告松村昭作に対し、金五〇万円及びこれに対する平成三年三月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告菅幸臣に対し、金五〇万円及びこれに対する平成三年三月九日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

三  原告らのその余の請求をいずれも棄却する。

四  訴訟費用はこれを一五分し、その一を被告の負担とし、その余を原告らの負担とする。

五  この判決は、第一、二項に限り仮に執行することができる。

ただし、被告が原告ら各自に対し、それぞれ金五〇万円の担保を供するときは、右各仮執行を免れることができる。

事実及び理由

第一章  原告らの請求

一  被告は、原告松村昭作(以下「原告松村」という。)に対し、金五〇七万二六〇七円及び内金三五九万八六一四円に対する平成三年三月九日から、内金一四七万三九九三円に対する平成七年六月九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  被告は、原告菅幸臣(以下「原告菅」という。)に対し、金一〇二九万六九〇三円及び内金六四九万九〇七四円に対する平成三年三月九日から、内金三七九万七八二九円に対する平成七年六月九日から各支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二章  事案の概要

第一  事案の要旨

一  本件は、秋田県職員である原告らが、県職員で構成される秋田県職員労働組合(以下「県職労」という。)において、現執行部(以下、現執行部を支持するグループを「主流派」という。)の方針に反対するグループ(以下「反主流派」という。)に属して活動してきたことを理由に、秋田県知事(以下、「県知事」という。)等から昇任、昇格において不当な差別を受け、これにより差額賃金相当の経済的損害及び精神的な苦痛による損害を被ったとして、被告に対し、国家賠償法一条一項若しくは民法七一五条に基づき損害の賠償を求めた事案である。

二  前提となる事実

1 原告らの地位(争いがない事実)

原告松村は、昭和一〇年三月二〇日生まれであり、昭和三四年一月秋田県職員に採用され、農業改良普及員として勤務し、本訴提起後に大館農業改良普及所の所長補佐に就任し、平成七年三月定年退職した。

原告菅は、昭和一二年六月九日生まれであり、昭和三三年秋田県の臨時職員として採用され、昭和三七年一月に正職員となり、事務吏員として勤務し、本訴提起後に秋田土木事務所都市計画課課長補佐に就任し、現在に至る。

2 県職員労働組合の状況

県職労は、秋田県職員で構成される労働組合であり、平成二年六月一日時点で職員総数五三一五名中四二六二名が加入している。(弁論の全趣旨)

県職労内には、現執行部を支持するグループである主流派とその方針に反対するグループである反主流派が存在し、原告らは反主流派に属していた。(甲二、証人田中金悦、証人加賀谷多吉、原告松村本人、原告菅本人、弁論の全趣旨)

3 昇任の制度について(争いがない事実)

(一) 昇任とは、地方公務員法一七条一項に定める任命上の概念であり、具体的には、秋田県人事委員会規則四―五(職員の任用、以下「任用規則」という。)三条において、「職員を、法令、条例、規則等の規定により設置されている組織上の名称を有する職又は階級で、その現に有するものより上位の職又は階級に任命すること。」と定められ、秋田県人事事務取扱規程(昭和四二年秋田県訓令四号、以下「人事規定」という。)三条において、「職員を、現に任命されている当該職員の職より上位の職に任命すること。」と定義している。

(二) 昇任の方法については、地方公務員法一五条は、職員任命の根本基準として、地方公務員法の定めるところにより、「受験成績、勤務成績その他の能力の実証に基づいて行わなければならない。」と規定して成績主義の原則を掲げ、同法一七条三項では、「職員の採用及び昇任は、競争試験によるものとする。」と競争試験によるものを原則とする一方、「但し、人事委員会の定める職について人事委員会の承認があった場合は、選考によることを妨げない。」とし、選考により昇任を行うことができる旨規定している。

右規定を受けて任用規則二七条一項一号は、主任以上の職について選考により昇任させることができる旨規定し、同規則三〇条一項で、選考は、任命権者の請求に基づき人事委員会が行う旨規定し、同規則三五条二項で、人事委員会は、課長補佐(これに相当する職を含む。)以上のものへの昇任についての選考を実施する権限を、各任命権者に委任する旨規定している。被告では、主任及び係長(これに相当する職を含む。)への昇任については、任命権者である県知事が昇任者を内定し、同規則三〇条の規定に基づき人事委員会に対し選考の実施を請求し、その結果に従って昇任を行い、課長補佐(これに相当する職を含む。)以上の職への昇任については、県知事が昇任者を決定している。

(三) 被告における職員の昇任は、一部の例外を除いて、毎年の定期人事異動(四月)のときに行われている。

毎年度の定期人事異動にあたっては、①人事当局がその年度における人事異動方針を前年の一二月初めに総務部長名で全課所に通知しているが、人事異動方針の内容は、人事異動を行うに当たっての基本的な考え方を示す「基本方針」と人事異動の対象となる職員の勤務・経験年数等の原則的な基準を示す「異動基準」で構成される。②前記の通知を受けた課所では、一二月中に所属長が面接等により職員の全職員から事情を聴取し、「職員調書」(職員個々の学歴、職務経験、担当職務、通勤方法、家族状況、異動希望課所等を記入するもの)、「昇任推せん者名簿」(係長以上の職《本庁課長以上の職を除く。》へ昇任させることが適当と認められる者について所属長が記入するもの)、「主任昇任推せん者名簿」(一般職員を主任に昇任させることが適当と認められる者について所属長が記入するもの)を作成して人事当局に提出し、③前記書類の提出を受けた人事当局は、一月初旬から二月中旬にかけて、全課所の所属長から個々の職員全員について事情聴取を実施する。事情聴取は、人事当局の担当者が複数のチームを組んで行い、前記の職員調書等の記載内容の説明を受けるとともに、個々の職員の日常における執務振り、職務の遂行能力、職員の職場における態度や人柄、性格等の把握に努める。人事当局は、こうした一連の手続を踏んでから人事異動の作業に入り、三月下旬に人事を確定、内示、発表し、四月一日に発令が行われている。

また、人事異動の作業中、特に職員の昇任については、所属長の内申、意見等を参考にしながら、当該年度における退職等による職員の職の欠員状況、職場や担当部門における職員の職の構成、各種施策の内容や事務量等を勘案し、個々の職員の資格、学歴、経験、資質、能力などを総合的に検討したうえで、職員を昇任させるか否かが決定される。

4 昇格の制度について(争いがない事実)

(一) 昇格とは、給与決定上の概念であり、任用上の概念である昇任とは法的には異なるものであり、具体的には、人事規定三条で、「職員の職務の級を、同一給料表の上位の職務の級に変更すること」であると定義している。

(二) 給料の決定基準について、地方公務員法二四条一項は、「職員の給与は、その職務と責任に応ずるものでなければならない。」と規定し、地方公務員の給与は職務給の原則によることとしている。被告においても、この職務給の原則を具体的に実現するため、一般職の職員の給与に関する条例(以下「給与条例」という。)四条三項及び人事委員会規則七―〇(初任給、昇格、昇給等の基準、以下「給与規則」という。)三条において、職員の職務の複雑、困難及び責任の度合いに応じ、その職務を給料表上で級に分類し、その分類の基準となるべき標準的な職務の内容は、同規則別表第一の級別標準職務表に定めている。同表では、一級から三級までは主事、技師の職務、四、五級は係長、主任の職務、六、七級は本庁の課長補佐、地方機関の長の職務、八、九級は本庁の課長、困難な業務を所掌する地方機関の長の職務、一〇級は本庁の次長の職務、一一級は本庁の部・局長の職務と格付けされている。

なお、被告では、地方公務員法二三条に規定する職階制が現在まだ採用されず、同法二五条四項に規定する職階制に適合する給料表に関する計画も実施されていない。

(三) 昇格の要件については、給与規則二〇条一項で、当該職員の担当職務が級別標準職務表に定める基準に適合していることのほか、給与規則別表第二の級別資格基準表に定める資格基準を満たしているなど一定の資格要件に適合していることが必要であるとされている。この級別資格基準表に定める資格基準とは、職員の有する経験年数又は在級年数が同表に掲げる必要経験年数あるいは必要在級年数に達していることを要件とするもので、昇格の場合はどちらか一方を満たすことが最低限必要な資格要件となっている。また、原則として、現に属する職務の級において一年以上在級していなければ昇格を行うことはできないとされている(給与規則二〇条三項)。

第二  主な争点

一  昇任についての県知事等の裁量権の行使はどのような場合に違法となるか。

二  原告らの昇任が反主流派以外の職員と比較して遅れているか否か(昇任格差の有無)。

三  原告らの知識・能力・適正・勤務実績等についての評価

四  県知事等の原告らに対する昇任についての処遇は違法か

1 県知事等に原告らが県職労の反主流派に属する者であることを認識し、かつ、その所属若しくは組合内活動を理由に差別的取扱いをする意思があったか否か(差別意思の有無)。

2 昇任格差と差別意思との間の因果関係の有無

五  県知事等の差別的取扱いによって原告らに損害が生じたか。

第三章  当事者の主張

第一  原告ら

別紙「原告らの主張」記載のとおりである。

第二  被告

別紙「被告の主張」記載のとおりである。

第四章  当裁判所の判断

第一  昇任についての裁量権の行使と違法性について(争点一)

一  任用の根本基準につき、地方公務員法一五条は成績主義の原則を規定し、昇任を選考で行う場合の基準に関しては、任用規則二九条で、当該職の職務遂行上必要とされている法令に定める免許その他の資格及び人事委員会が必要と定める経歴、学歴若しくは技能等を有すること及び勤務成績が良好であることが必要であると規定されているが、技能の程度、勤務成績の評価等は性質上、任命権者の裁量的判断に委ねられるものであり、右基準で機械的に昇任の適否が決まるものではない。結局、昇任させるか否かは、選考権者が、当該職員の経歴、学歴、知識、資格、能力、適性、勤務実績等の諸要素、組織管理上の諸要素(昇任すべき上位の職の欠員の有無、職員の職の構成等)、他の昇任候補者との比較等総合的な判断から決定せざるを得ないものであり、昇任させるか否かの判断は、選考権者の裁量に属するものである。

また、地位が上位になればなるほど、ポストが少なくなるとともに、当該役職の困難性、重要性が高まり、統率力、調整力、組織管理能力等の当該職で要求される能力の有無を慎重に判断して適任者を選別することが必要になるのであるから、選考に関しての裁量権の許容性の範囲がより広くなるといえる。任用規則三五条二項において、課長補佐(これに相当する職を含む。)以上の職への昇任に関し選考を実施する権限を各任命権者に委任するとしているのは、右の点を考慮してのものであると解される。原告らが昇任が遅れたと主張する所長補佐及び課長補佐以上の職は、いずれも任用規則において、県知事に選考の実施が委任されている職であるから、県知事が、昇任させるか否かについて、広範な裁量権を有していると認められる。

二  しかしながら、右裁量権の行使も、地方公務員法一三条の平等取扱いの原則、同法五六条の不利益取扱禁止の原則の制約を当然に受けている。したがって、当該職員の特定の昇任に関して、他の職員に比較して知識・能力・適正・勤務実績等が同程度である場合には、本人が昇任を希望しないなどの特別の事情がない限り、原則として同様の処遇がなされることが期待されるものであり、特定の信条を持ち、特定の方針の下において労働組合活動等をしていることを理由に、昇任に関して他の職員と比較して明らかな不利益な取扱いをした場合には、右裁量権を逸脱することになり、当該組合員の昇任に関して地方公務員法一三条、五六条により保護されるべき法律上の利益を侵害するものとして、不法行為となるものである。

第二  昇任格差の有無について(争点二)

一  原告らの主張は、昇任に関し不利益な取扱いを受け、昇任が遅れ、昇任の遅れに伴い昇格昇給も遅れたとして、昇格昇給していれば受けることができたであろう給与と支給された給与との差額の損害や慰謝料を請求するものであるので、まず原告らの昇任に関し遅れがあるか否かを検討する。

二  原告松村について

原告松村と秋田県立農業講習所の卒業が同期で農業改良普及員として秋田県職員となった者は、原告松村を含め七名であり、その昇任状況等は、別表一のとおりである。(弁論の全趣旨)

なお、農業改良普及員は専門職であり、その職務内容の特殊性から、人事異動も、農業改良普及所にほぼ限られており(証人岩本孝一、弁論の全趣旨)、右七名は年齢も後記のとおり近接しているから(甲二一七)、原告松村の昇任に関して比較する対象者としては、同時期に県職員となった者一般よりは、右のように農業改良普及員として採用になった者を対象者とするのが合理的である。

別表一によれば、原告松村と秋田県立農業講習所の同期の者が県職員に採用された時期は、それぞれ昭和三一年一二月(一名)、昭和三二年八月(三名)、昭和三四年一月(原告松村)、昭和三六年九月(一―5)及び昭和三七年七月(一名)であり、採用時期は三名を除いて異なるが、原告松村及び一―5を除いた五名については、主任、主査への昇任時期がほぼ同時期であり、いずれも所長補佐を経て所長へと昇任している。なお、右五名は反主流派には属さない職員であり、一―5は、原告松村と同じく反主流派に属する職員である(甲一一、証人増村昭三、原告松村本人、弁論の全趣旨)。

別表一により、採用時から起算して主任、主査及び所長補佐への各昇任までに要した期間を検討すると左記のとおりであり、原告松村の昇任状況は、他の職員に比較して、主任、主査及び所長補佐への各昇任に要した期間が一番長く、右各昇任に要した期間と反主流派でない職員五名についての右各昇任に要した期間の各平均値である一五年、一八年七月及び二六年二月と比較すると、三年三月、四年八月及び七年一月という差がそれぞれ生じており、外形的にみて右各昇任が遅れており、特に本訴提起の平成三年三月時においては原告松村は採用時から三二年経過してもいまだ主査の地位にとどまっていたものであるから右時点における昇任の遅れは明らかである。

(氏名)

(生年月)

(主任まで)

(主査まで)

(所長補佐まで)

一 ― 6

九年一二月

一一年  九月

一四年  九月

二二年  九月

一 ― 4

一〇年  五月

一五年  八月

一九年  八月

二六年  八月

一 ― 3

一〇年  六月

一五年  八月

一九年  八月

二九年  八月

一 ― 2

九年一二月

一五年  八月

一九年  八月

二二年  八月

一 ― 1

一〇年  四月

一六年  四月

一九年  四月

二九年  四月

一 ― 5

一〇年一一月

一五年  七月

二〇年  七月

二九年  七月

松 村

一〇年  三月

一八年  三月

二三年  三月

三三年  三月

三  原告菅について

昭和三八年上級一般事務昇任試験に合格した原告菅の同期二七名の秋田県職員の昇任状況等は、概ね別表二のとおりである(弁論の全趣旨)。なお、上級一般事務昇任試験とは、かつて被告において実施されていた主事補、技師補から主事、技師への昇任試験である(証人品田稔)。

別表二により、右昇任試験合格時から起算して主任、係長級及び課長補佐級以上への各昇任に要した期間を検討すると左記のとおりであり、原告菅の昇任状況は、主任、係長級及び課長補佐級以上への各昇任の時期がいずれも右二七名中おおよそ二五番目であり、同期の中では原告菅と同じく反主流派に属している二―11(甲一一、原告菅本人)とともに最も遅い者の部類に入り、外形的にみて右各昇任が遅れており、特に、原告菅の年齢に近いと推認される平成七年時における在職者(その中の二―17は原告菅と同年齢である。原告菅本人)のほとんどが二〇年前後で課長補佐級に昇任しているのに比較すると、本訴提起の平成三年三月時においては原告菅は右昇任試験合格時から二八年経過してもいまだ係長級の地位にとどまっていたものであるから右時点における課長補佐級への昇任の遅れは明らかである。

なお、上級一般事務昇任試験合格の同期の職員といっても、年齢、経歴等が異なるものであろうから、単純に右各昇任に要した期間を比較しても昇任の遅れについての判断の正確性が質的に高度なものを維持できるとはいえないが、右のとおりの方法による比較検討においては原告菅の右各昇任の遅れの程度が大きいことから、比較対象者の要件に不確定なものがあることを考慮しても、原告菅については課長補佐級までの昇任が遅れていたという判断には合理性があるものと考える。

(主任まで)

(係長級まで)

(課長補佐級まで)

一一年

九名

一四年

七名

二〇年

七名

一二年

五名

一二・一三年

各四名

一九・二一年

各四名

一〇年

四名

一五年

四名

一八年

三名

八・九年

各二名

一〇年

二名

一七年

二名

一五年

二名

七・一一年

各一名

一一・一三年

各一名

一六年

一名

一八・一九年

各一名

一六・二四年

各一名

二八年

一名

二九年

一名

一五年

原告菅

二〇年

原告菅

二九年

原告菅

第三  原告らの知識・能力・適正・勤務実績等についての評価(争点三)について

一  原告松村について

(一) 原告松村主張の職務及び職務上の成果については、その評価は別にして、概ね当事者間に争いはない。

原告松村は、懲戒処分等を一切受けておらず(甲二〇三、証人山内三千雄)、原告松村主張の昇任に伴う分は別として、これまで定期昇給、特別昇給、昇格基準表に基づく昇格を順調に受け、平成六年一月一日付けで行政職七級枠外一の五号の給与を受けている職員である(甲二〇三、乙一六の二、原告松村本人)。

被告は、原告松村の勤務実績につき、原告松村の指導が比内町向田農事研究会の七五〇キロどりにどの程度貢献したか不明であり、原告松村が確立したと主張する「開田赤枯病」の防除対策については、その原因がヨウ素であることは一般に認められていたものであり、原告松村が貢献したとするシズイ防除法の発見も青森県の農業試験場では既に確立していた等として、原告松村の勤務実績は農業改良普及員であれば通常行わなければならない程度のものであると主張する。

確かに、比内町向田農事研究会の七五〇キロどりに関しては、七五〇キロどり達成の前年に既に六九九キロまで達していたことは認められるが、原告松村が同研究会を指導するようになったのは、同研究会からの要請を受けてのものであり、同研究会は、現状のままでは七五〇キロどり達成の見通しがたたなかったことから、原告松村に技術指導を依頼したものである。原告松村が技術指導した年に同研究会は七五〇キロどりを達成しており、原告松村の指導が相当程度同研究会の七五〇キロどりに貢献したものと認められる(甲二〇八、二〇九、二一六、原告松村本人)。「開田赤枯病」の防除対策及びシズイ防除法の点については、当時秋田ではいずれの防除法も普及はしていなかったものを、原告松村が研究発表し、その普及に貢献したことが認められる(甲二一〇、二一二、二一六、原告松村本人)。

また、農業改良普及所は、ほとんど許認可事務を担当しておらず、農業技術指導の専門家として担当地域農家から信頼されないとその役割である農業改良普及活動を行うことができない面があるが、原告松村は、農家への情報紙の提供を、他の担当者は通常は年に七、八回であるものを、毎月一回から二回提供し続け、農業改良普及所が農家のための稲作技術手引きとして作成した稲作読本等を中心になって作成した。更に、農家の後継者を対象に稲作技術の夜学講座を中心になって企画担当し、一年目は受講希望者が三九名であったのが、二年目は七〇名を越す希望者が集まり好評を得るなど、農家への農業技術の指導、普及活動に積極的に取り組んできたことが認められる(甲二一四ないし二一六、二四五の一ないし七三、二四六の一ないし五四、二四八、証人加賀谷多吉、証人増村昭三、原告松村本人、弁論の全趣旨)。

(二) 原告松村は、原告松村と同職である農業改良普及員の標準的な勤務実績に関する主張立証をしておらず、原告松村の勤務実績の優劣を比較する具体的な対象が明示されてはいない。しかしながら、原告松村が継続してきた農家への定期的な情報紙の作成などは勤務時間外の作業やより多くの勤労意欲を必要としたことは推測するに難くないことであるし、被告の主張は、原告松村が勤務実績として挙げるものは農業改良普及員であれば通常行わなければならない内容であると単純にいうにとどまっており、これに先に認定した原告松村の勤務実績、農家への技術の指導及び普及活動に積極的に取り組んできた態度などを考慮すれば、原告松村の農業改良普及所の職員としての知識・能力・適正・勤務実績等は、他の標準的な職員のそれに劣るものではなく、むしろ優れたものであったと認めるのが相当である。

(三) 農業改良普及所(県内一二カ所)の職員数は一〇名から二五名程度であり、職制の構成は、一般的には、所長、次長、所長補佐、主査、主任、技師からなる。所長は所全体の統括者であり、渉外関係の業務が多く、次長は所内の庶務(人事を含む)に関し所長を補佐する者であり、所長補佐は、畜産、果樹等の担当係の責任者として主査以下の一般職をまとめる役割を担っている(甲二一七、二一八、証人岩本孝一、証人増村昭三)。所長補佐は、主査以下の職員と比較して、管理職的要素が強くなってはいるが、次長になると所内全体を把握する力量が要求されるのに対し、所長補佐の場合は、担当係の職員数名にとどまるものであり、管理職手当も支給されないこと(乙一五)からすれば、次長に比して、その管理職的要素はかなり低いと考えられる。もっとも、所長補佐も一定の管理職的要素が要求される職であることから、昇任に際しては、企画力、統率力、組織管理能力等も考慮されることになるが、原告松村が、農業改良普及員として、農家に対する指導で相当の成果を挙げていたこと、原告松村が職場における人間関係で問題があったことを窺わせる証拠はないこと、被告が原告松村につき企画力等が劣る旨の積極的主張立証も行っていないことからすれば、所長補佐に要求される企画力、統率力、組織管理能力等に関しても、本訴提起の平成三年三月の時点で原告松村において能力・適性等に欠けるところがあったものとは認められない。

県知事の裁量権がより広範となる次長以上の管理職に関しては、その要求されるところの能力・適性等を原告松村が有していたかどうかは、本件証拠資料からは判断できない。

二  原告菅について

(一) 原告菅主張の職務及び職務上の成果については、その評価は別にして、皆瀬ダム管理事務所における職務担当の有無を除いて概ね当事者間に争いはない。

原告菅は、懲戒処分等を一切受けておらず(甲二〇五、証人山内三千雄)、原告菅主張の昇任に伴う分は別としてこれまで定期昇給、特別昇給、昇格基準表に基づく昇格を順調に受け、平成六年一〇月一日付けで行政職七級枠外一の五号の給与を受けている職員である(甲二〇五、乙一七の二、原告菅本人)。

被告は、原告菅が、平成六年に秋田県用地対策連絡会で表彰されたのは、表彰対象者の内規に合致したからに過ぎず、業務上功績があったからではないと主張する。しかしながら、経験年数、年齢等の内規はあるにしても、同表彰の趣旨は、用地補償業務を担当し職務上顕著な功績があり、他の職員の模範として推奨するに値する者であるという点にあること、原告菅が表彰されることになったのは、当時同原告が所属していた秋田県土木事務所長の推薦に基づくものであったことからして、右表彰は単に経験年数が長いというだけでなく、業務上の成果も考慮したものであったと認められる(甲二二二ないし甲二二四)。

原告菅は、原告菅と上級一般事務昇任試験合格等の同期の職員の標準的な勤務実績に関する主張立証をしておらず、原告菅の勤務実績の優劣を比較する具体的な対象が明示されてはいない。しかしながら、原告菅が表彰の対象となったこと、先に認定した原告菅の経歴、勤務実績等からすれば、原告菅の一般行政職員としての知識・能力・適正・勤務実績等は、他の同期の標準的な職員と同程度のものであったと認めるのが相当である。

(二) 原告菅が勤務する土木事務所(県内八カ所)は、その職員数五〇名から一〇〇名位の規模であり、職制の構成は、一般的には、所長、次長(数名)、課長、課長補佐、主査、主任、主事・技師からなる(証人岩本孝一)。

課長補佐(出先機関)の役割は、農業改良普及所における所長補佐と同程度のものと考えられ、管理職手当も支給されないこと(乙一五)から、その管理職的要素は低いと考えられるものの、一定の管理職的要素があり、昇任に際しては、企画力、統率力、組織管理能力等も考慮されることになる。原告菅は、居住地域において、町会の推薦を受け、宅地所有者による選挙によって秋田都市計画事業秋操駅南地区土地区画整理審議委員に選出され、土地区画整理事業に関する広報活動等を行っており、地域社会においても一定の信頼を受けていたことが認められること(甲二二八ないし二三九)、用地買収の仕事において一定の成果を上げていたこと、原告菅が職場における人間関係で問題があったことを窺わせる証拠はないこと、被告が原告菅につき企画力等が劣る旨の積極的主張立証を行っていないことからすれば、課長補佐に要求される企画力、統率力、組織管理能力に関しても、本訴提起の平成三年三月の時点で原告菅において能力・適性等に欠けるところがあったものとは認められない。

県知事の裁量権がより広範となる課長以上の管理職に関しては、その要求されるところの能力・適性等を原告菅が有していたかどうかは、本件証拠資料からは判断できない。

第四  差別意思(争点四の1)

一  県職労内における主流派と反主流派の発生について

証拠(甲一一ないし二四、三四ないし一五二、一五四、一五六ないし一五九、一六五、二二〇、証人田中金悦、証人加賀谷多吉、原告松村本人、原告菅本人)及び弁論の全趣旨によれば、次の事実が認められる。

(一) 昭和三四年、県職労執行部は、昇格基準等について総務部長、出納長交渉を行ったが進展せず、さらに副知事交渉を求めたが、拒否されたため、八日間の座り込み戦術を行使して要求実現を目指した。

こうした執行部の指導体制に対する不満を持つ組合員もあり、人事、財政、議会、福祉課分会で集団脱退の動きがあり、九〇名の組合員が脱退し、一部組合員は刷新連盟を結成し、執行部と対立することとなった。

また、同年一〇月二七日、県職労は、被告の内部文書として、組合対策要綱等と題する書面を入手したとして、その内容を組合員に示した。

昭和三五年には、県職労中央役員間にも指導方針に関し対立が発生し、役員一〇名が役員を辞任し、県職労からの脱退者も続出し、脱退者数は一七〇〇名にのぼった。役員辞任後残ったのは反主流派に属する人であり、役員の補充選挙を行い、補充選挙は、反主流派一〇名のみが立候補し、信任投票となったが、一名が不信任となった。信任投票に際しては、北秋田農業事務所長が組合員に対し、不信任票を投じるようにと働きかけ、県職労は、同事務所長に対し抗議した。

昭和三六年四月、県職労の幹部三名が、同年二月に小畑知事と知事公舎で交渉した際、公舎からの退去を求められたのにそれに応じなかったとして不退去罪等の容疑で逮捕された(県政共闘会議事件)。同年の県職労の中央役員選挙では、主流派に属する者が八名、反主流派に属する者が七名当選した。

(二) 昭和三七年の中央役員選挙では、主流派一五名が統一候補として立候補し、これに対抗して反主流派も一五名が立候補したが、主流派一五名が当選した。同年以降、県職労の役員は主流派が占め、反主流派は、県職労内における少数派となった。

その後も、反主流派は、主流派の統一候補に反する立場から県職労の本部役員選挙、支部役員選挙に立候補し、主流派と争った。原告菅は、昭和四五年から昭和五三年まで毎年県職労本部中央執行委員に立候補し、原告松村は、昭和四八年及び昭和四九年に同じく県職労本部中央執行委員に立候補した。

(三) 昭和四六年、県職労は、自治労秋田県本部が、小畑県政と対立方針を採用したことから、県本部傘下では県職労の運動の発展は期待できないとして、県本部から脱退した。

昭和四九年、県職労は、翌年の知事選挙で小畑知事を推薦することに決定した。

反主流派二四名(原告らも名を連ねていた。)は、同年一二月二一日、県職労中央執行委員長に対し、県職労執行部は六選を目指す小畑知事の政治活動を後援する政治団体「躍進秋田をひらく県民の会」への入会申込書を組合員に配付し、期限を区切って加入を求め、小畑知事の選挙に協力するか否かの踏み絵にしているとして、組合員に入会申込書を配付する等の指示を撤回するよう要求する旨の申込書を提出した。また、右申込書を提出した反主流派は、同日、「躍進秋田をひらく県民の会」への入会申込書の組合員への配付は、県職員を、その地位を利用して小畑知事当選のための活動に強制しようとするものであり、県職労執行部に「躍進秋田をひらく県民の会」入会申込書への署名指示をとりやめるように申し入れた旨の声明書を発表し、新聞各紙で報道された。

県職労の執行部は、昭和五〇年一月三一日付け、同年二月三日付け、同月五日付け同組合速報「秋田県職労」において、小畑知事再選に向けての活動の正当性を主張するとともに、右反主流派の活動を反組織的活動であると批判し、県職労中央執行委員長は、同年四月二一日、声明書を発表した有志二四名に対し、声明書発表等の行為は反組織的行動であるから、今後もこうした活動を継続する場合には所要の措置をとらざるを得ない旨の警告を書面で行った。

その後も、声明書を発表した有志二四名は、地方自治と民主主義を守る県職員の会として執行部の方針を批判する活動を続け、ビラ等で執行部の警告書に反論した。

また、昭和四九年一二月二九日、昭和五〇年一月一七日付け秋北新聞(鷹巣町を中心に発行されている地方紙)に、県職労執行部の方針に反対する旨の原告松村の手記が掲載され、昭和五〇年一月一〇日付け同新聞に県職労中央執行委員長Nの反論文が掲載された。

昭和五〇年ころ、横手農業改良普及所のD(昭和四九年に県職労の知事選への協力体制を批判する声明を発表したメンバーの一人)が、視察に来た小畑知事に対し、米の生産調整が始められたことから三色運動(食糧不足の時代に行われた休耕の田圃を多角的に利用しようとする運動、レンゲ―赤、麦―緑、菜種―黄色)のような多角的な仕事を行う必要がある旨提言したのに対し、小畑知事は、「緑、黄色、赤と三色はいいけど、赤だけじゃだめだよ」と応えた。

昭和五三年、県職労は、翌年の知事選において前副知事佐々木喜久治を推せんすることに決定し、それ以降の知事選では佐々木知事を継続して推せんしてきている。

二  報告文書について

証拠(甲一ないし一〇)及び弁論の全趣旨によれば次の事実が認められる。

(一) C雄勝財務事務所長は、人事課長宛に、昭和四六年五月二二日付け(同月二一日には、県職労の本部役員選挙が行われた。)で、県職労の役員選挙における県雄勝財務事務所所属組合員の投票動向を報告する旨の報告文書を提出した。報告文書の内容としては、主流派の支部役員を支持し、票読み、運動の進め方を協議していること、反主流派の活動については、立候補者及び支援活動している者の個人名を挙げて(原告菅が反主流派として立候補している旨の記載がある。)、その活動内容が記載されていた。また、組合の副委員長の投票の分析を行い、反主流派の人数を分析し、今後の対策としては、管理者は下級幹部に対し、棄権防止について徹底させ、反主流派が若い層に青年婦人活動を通じて支持の拡大を図ろうとしているので、主流派は勿論、管理者も青年婦人活動には特に留意し積極的にその主導権をとることに努める必要がある旨の報告をするものであった。

(二) 昭和四六年一二月定例県議会で、当時県議であった中川利三郎が右報告文書を問題として取り上げ、小畑知事は、県議会において、報告文書の内容に行き過ぎがあったことを謝罪したが、同文書の立案、指揮は行っていない旨答弁した。

また、小畑知事は、報告文書に関する日本共産党秋田県委員会の要求書に対し、昭和四六年一二月二七日、行き過ぎのあったと思われる点が認められたので、人事課長ほか関係者に対し今後再発防止するよう厳重注意した旨の回答をした。

(三) C雄勝財務事務所長は、昭和四七年一月二二日、県職労雄勝支部役員らに対し、県本部役員選についての報告文書は労働組合に対する不当介入であったと謝罪し、今後の再発防止を確約した。

三  反主流派に対する不利益な処遇について

(一) 県職労主流派の統一候補として本部役員を経験した者(四四名)と、反主流派として本部役員を経験した者ないしは候補者となった者(一一名)との退職時の役職は、別表五のとおりである(弁論の全趣旨)。

別表五によれば、県議会議員等の選挙に立候補のために退職した者、死亡退職した者、依願退職した者を除くと、主流派に属する者(三七名)の退職時の役職は、補佐(出先機関)四名、課長(出先機関)一名、主席課長補佐九名、所長四名、主幹一名、課長九名、参事一名、次長四名、部長四名であるのに対し、反主流派の者は、主事・技師一名、主任二名、係長七名、補佐(出先機関)一名であり、主流派に属する者中もっとも役職が低かった者の役職である課長補佐(出先機関)が、反主流派に属する者の中でもっとも昇任した者の役職と同じである。右の者は、職員の勤続年数、定年退職した者であるか否か必ずしも明確ではないが、主流派と反主流派との間には、集団として比較した場合、その昇任にかなりの格差がある。

また、別表一によれば、反主流派の一―5は原告松村とほぼ同様な昇任経過となっており、別表二によれば、反主流派の二―11は原告菅とほぼ同様な昇任経過となっており、いずれも他の同期の者と比較した昇任が遅れている。秋田県立農業講習所及び農業大学園卒業生中の秋田県職員の平成三年四月一日現在の役職は、別表六のとおりである(争いがない。)。

別表六によれば、同表には昭和二六年卒業の者から昭和四一年卒業の者まで一四三名が記載されているが、主査以下の職にとどまっているのは二二名であるが、このうち若年退職者等を除くと、九名となり、その内訳は、健康障害があった者五名(争いがない。ただし、被告は健康障害があったことのみが昇任の遅れの原因ではないと主張している。)、反主流派に属する者四名(原告松村本人、弁論の全趣旨)である。

右のいずれの比較からしても、反主流派に属する者は昇任が遅れていることが認められる。

(二) 原告らは、反主流派に属する者は、いわゆるミサイル人事によって、遠距離通勤、単身赴任を余儀なくされ、不利な扱いを受けた旨主張し、その具体的事例として、原告菅が皆瀬ダム管理事務所に転勤になったことを指摘する。右の原告菅の転勤は結婚を控えた時期であり、原告菅にとって不満が残るものであったことは認められる(原告菅本人)が、皆瀬ダム管理事務所勤務になった者の中には、原告菅以外にも遠隔地から転勤してきた者があり、特に反主流派を狙い打ちにした遠隔地への異動であったとまでは認められない。また、原告菅のダム管理事務所への異動以外には具体的な事例の立証はない。

四  右に認定した諸事情、すなわち、反主流派が県職労の執行部を占めていた時期には、小畑知事を知事選で支持することはしていなかったが、主流派が執行部を占めるようになってからは、県職労は小畑知事及び佐々木知事を知事選では支持していること、複数の管理職に、反主流派の行動を監視し、職員に対し主流派を支持するように働きかける行動が認められたこと(なお、原告らが主張するように昭和三七年以降主流派が県職労の執行部に就いたのは、県当局の策動の結果であるとまで認めるに足りる証拠はない。)、反主流派に属する者は、知事選における主流派の方針に反対する旨の声明を発表し、新聞各紙で報道されるなど活発な活動を昭和三〇年代後半から昭和五〇年代前半にかけて行っていたこと、反主流派に属する者は例外なく、昇任が遅れ、係長級程度にとどまっていることなどからして、県当局は、反主流派に対して差別意思を持っていたと認められる。また、原告らは、反主流派が知事選について声明を発表した際のメンバーとして名を連ねており、かつ、県職労の本部役員選挙への立候補など、反主流派として積極的な活動をしており、県当局は、原告らが、反主流派に属することを十分に認識していたと認められる。

第五  原告らに認められる昇任の遅れと差別意思との因果関係(争点四の2)

一  別表六のとおり、主任、主査は農業改良普及員として採用された職員であれば、ほとんどの者が昇任する職であり、また、別表二のとおり、主任、係長級は上級一般事務昇任試験に合格した職員ならば、ほとんどの者が昇任する職であり、昇任に関する裁量権があるにしても、勤務成績の不良や健康障害等の特別な事由がなければ、右昇任に関する処遇においては同期等の職員間にさほどの差は生じないものと考えられるところ、原告らの右各昇任前に原告らに右の特別の事由があったものとは認められず、反面、このころ、原告らは県職労本部中央執行委員に立候補するなど主流派に対立する積極的な行動態度を示していたものである。

二  昭和六三年、原告松村の当時の所属長Oが、所長補佐への昇任候補として原告松村を昇任推せん者名簿に記載したが、昇任することなく、平成元年及び平成二年には、当時の所属長Pが、原告松村を所長補佐への昇任候補として右名簿に記載するとともに、原告松村の昇任を重点要望事項調書に記載して、内申し、右Pが原告松村の昇任を重点要望事項としたのは、原告松村の勤務成績がすべての面で平均以上であるのに、同期の一―4と比較して所長補佐への昇任がかなり遅れていることは相当でないという判断で、当時の次長Mと意見が一致したからであったが、いずれの年も、原告松村の昇任は認められなかった(甲二四三、二四四、証人M)。

原告松村について三年連続で右昇任の内申があったにもかかわらず、県知事が原告松村を所長補佐に昇任させなかったことについて、合理的な理由は見い出しがたい。

その後、本訴提起後の平成四年四月一日、原告松村は所長補佐に、原告菅は課長補佐にそれぞれ昇任した。

三  右の事情及び前記第二、第三の認定事情によれば、原告松村についての主任、主査及び所長補佐への各昇任の遅れ並びに原告菅についての主任、係長級及び課長補佐(出先機関)への各昇任の遅れは、いずれも県知事等の反主流派に対する差別意思に基づく取扱いであると推認される。

第六  県知事等の原告らの昇任についての処遇の違法性について(争点四)

以上によれば、県知事等の原告らに対する前記昇任についての処遇は、前記昇任に関して他の職員と比較して知識・能力・適性・勤務実績等が同程度である原告らに対し、前記昇任が期待される場合であるにもかかわらず、原告らが県職労の反主流派に属して活動してきたことを理由に、前記昇任に関して他の職員と比較して明らかに不利益な取扱いをしたことになるから、昇任についての裁量権を逸脱したものであり、原告らの地方公務員法一三条、五六条により保護されるべき法律上の利益を侵害するものである。

したがって、県知事等の不法行為として、被告は、国家賠償法一条一項に基づき原告らに生じた損害を賠償すべき責任がある。

第七  原告らの損害について(争点五)

一  差額賃金について

原告らは、昭和六一年四月一日に原告松村が所長補佐に、原告菅が次長(出先機関)にそれぞれ昇任すべきであったとして、昇任した場合に受けるべき給与と実際の給与との差額を損害であると主張している。

しかしながら、職員の給与は、職務給を前提とするものであり、昇任に伴い昇格が認められるのは、昇任により担当する職務がより複雑、困難なものとなることの対価として、昇格昇給が認められているものと解されるから、ある時期に昇任すべきであったとしても、従前の職務の業務を継続して担当しているのであれば、より複雑、困難な職務を担当した場合に支給される給与との差額を損害として請求することは認められない。

また、原告松村が昭和六一年四月一日に所長補佐に昇任すべきであったと具体的に確定できる事情は明らかではなく、また、原告菅が右時期に次長に昇任すべきであったとする根拠は見当たらない。

したがって、差額賃金を損害とする原告らの請求は理由がない。

二  慰謝料について

県知事等の前記不法行為は、個人として尊重されたい、勤務実績に対して正当に評価してほしいとの原告らの心情を乱し、自己達成感を弱め、職場内の格付けやこれについての社会的評価を通じて原告らの名誉心を傷つけるものであるから、原告らに不快感と精神的苦痛を与えたことは明らかである。

諸般の事情に照らすと、原告らの精神的苦痛を慰謝するには原告ら各自に対し、金四〇万円の慰謝料をもって償わせることが相当である。

三  弁護士費用について

本件訴訟と相当因果関係を有する弁護士費用は、本件審理経過、認容額等に照らせば、原告各自につき金一〇万円であるとみることが相当である。

第八  結論

以上より、本件請求は、原告各自につき金五〇万円及びそれぞれにつき平成三年三月九日(訴状送達日の翌日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余の請求はいずれも理由がないから棄却することとする。

(裁判長裁判官片瀬敏寿 裁判官坂本宗一 裁判官唐木浩之)

別表<省略>

別紙原告らの主張

一 主流派は、労使協調のいわば御用組合であるが、反主流派は、これとは異なり、県職労の民主化と当局からの独立を求め、県民本位の県政を目指し、活動を行っている。

二 県知事等の裁量権と違法性について(争点一)

昇任につき任命権者の裁量権が存在するとしても、裁量権の行使は、地方公務員法上の平等原則(一三条)や不利益取扱の禁止原則(五六条)に則って行われなければならないのであって、組合活動上の差別意思をもってなされた場合には、違法性を帯び人事査定において他の職員と平等な取扱いを受けるとの原告らの法的保護に値する利益を侵害するものとして不法行為を構成するものである。

県知事の原告らに対する本件人事差別は、憲法一三条、一四条、地方公務員法一三条、五六条に違反する違法行為であるから、被告は、原告らに対し、本件人事差別により原告らが被った損害を、国家賠償法一条もしくは民法七一五条により賠償する義務がある。

三 格差の有無について(争点二)

1 原告松村について

原告松村の勤務する秋田県内の農業改良普及所の職員は、職務の特殊性から、職員は、かつての秋田県立農村指導員養成所から連なる、農業技術員養成所、農業講習所、農業大学園、農業短期大学の卒業生がほとんどであった。したがって、同じ短期大学及び改良普及員養成機関の同期生は採用年次が違っても、前歴が同種であることから、昇任・昇格ともほぼ同時に行われている。

原告松村は、昭和三一年三月の農業講習所第六期の卒業生で、同期一八名中七名が農業改良普及員として勤務していたが、その採用は、四名が選考採用であり、残り三名が秋田県職員採用中級及び初級試験合格者である。原告松村は、秋田県職員採用中級(農業改良普及員)試験最初の合格者として採用されている。

原告松村の場合、昇任試験による技師補から技師への昇任は差別がなかったが、主任への昇任からは同期生より遅れている。

平成三年四月一日時点において、原告松村と県立農業講習所農業科の同期である六名の役職は、所長一名、次長二名、所長補佐三名であり、原告松村のみが主査に留まっていた。

また、平成二年、改良普及員の昇任が他の課所より遅れているのを是正するため、原告松村より六年から八年後輩までが一度に所長補佐に昇任したが、原告松村は、主査のまま据え置かれた。

秋田県立農業講習所及び農業大学園卒業生中の秋田県職員の平成三年四月一日時点の昇任状況は別表六のとおりであり、同別表によれば、原告松村と同位の主査であるのは、健康障害者であることが明らかな者(講習所農業科三期六―24、同五期六―38、同八期六―63、同九期六―72、講習所生活科七期六―141)、原告らと同様に反主流派に属する者(講習所農業科一四期六―101、同科同期六―103、大学園一期六―117。なお、本件訴訟提起の平成三年に、反主流派の講習所農業科五期六―39は北部支所長に、同六期六―53は所長補佐にそれぞれ昇任した。)だけである。また、懲戒免職処分を受けたことがある者(講習所農業科三期六―30)や、講習所農業科一五期で飲酒運転で停職処分という懲戒処分を受けた職員よりも、原告松村の昇任は遅れている。

原告松村は、本件訴訟提起後、訴訟提起の効果で、平成四年四月一日付けで所長補佐に昇任した。

2 原告菅について

原告菅は、昭和三三年に臨時職員として勤務し、その後、事務見習職員、主事補、主事の各昇任試験をそれぞれ一回で合格してきた。したがって、主事までの昇任については差別はなかった。

しかし、主任への昇任は、同期の職員(昭和三八年・第一一回上級一般事務昇任試験合格者)よりも五年から六年遅れた昭和五三年であった。また、用地専門員(係長相当職)への昇任は、同期の職員よりも八年も遅れた昭和五八年であり、同職に九年据え置かれ、平成三年当時、同期の職員の中位者はすでに本庁各課の主席課長補佐または地方出先機関の次長に昇任して管理職となっているのに、用地専門員に留められ、平成四年四月一日付けで、課長補佐(地方機関)に昇任した。

3 昇任と昇格は連動するものであるから、原告らは、右の昇任の遅れに伴い、昇格についても、同期職員と比べ不利な扱いを受けた。

4 原告らの具体的な昇任の遅れと格差は、別表一、二のとおりであり、常識では考えられない著しい格差であることは明らかである。

四 原告らの勤務実績等について(争点三)

1 原告松村の職務と職務上の成果

昭和三一年三月 秋田県立農業講習所農業科卒業後、家事農業に従事。

昭和三二年二月 秋田県雄勝郡稲庭農協に営農指導員として勤務。

同年七月 秋田県本荘市子吉農協に営農指導員として勤務。

昭和三三年六月 秋田県職員採用中級(農業改良普及員)試験合格。

昭和三四年一月 秋田県職員に採用され、河辺地区農業改良普及所に技師補として勤務し、雄和村戸女川、種平地区の農業指導を担当。

昭和三五年 雄和村椿川地区に農業改良普及所が設置した水稲の耕種改善試作圃(栽培技術実証圃)の担当者になったが、その年秋田市、河辺郡を襲ったいもち病によって地域一円が穂いもち病に侵された中で、耕種改善試作圃のみが健全に生育し、多収を得たことから地域農家の話題になり称賛された。

簡易畑苗代による水稲育苗技術を確立した。

昭和三六年三月 森吉地区農業普及改良所に勤務し合川町下小阿仁、落合地区農家の農業指導を担当。

同年四月 秋田県職員上級職昇任試験に合格し、四月一日技師に発令される。

昭和三七年 合川町雪田地区における水稲の黄化萎縮病防除のため、水害を受けない地帯に共同苗代の設置をすすめ、無病苗の育成に努め成果を上げた。

昭和三八年 合川町東根田地区に、水田除草剤集団展示圃を設置し、合川町にはじめて水田初期除草剤を普及させた。

また、同地区に水稲湛水直播栽培試験圃を設置し、湛水直播の可能性を実証した。

昭和三九年四月 二ツ井地区農業改良普及所に勤務し、二ツ井町と藤里町農家の農業指導を担当し、稲作技術の向上に努力した。

昭和四一年四月 大館農業改良普及所に勤務し比内町農家の農業指導を担当。

昭和四三年まで、新しい形の農村青少年育成事業に取り組み「こがねサークル」(会員六〇名程度)を育成し、青少年活動コンクールの秋田県代表になり、全国大会に出場したほか、NHKテレビで放映され全国的に注目された。現在このサークル員達が比内町農業の中心的な担い手になっている。

昭和四三年 比内町向田農事研究会が秋田県水稲「七五〇キログラム集団褒賞」制度に取り組み、七五〇キログラムを突破し特別賞二〇〇万円を獲得したが、原告松村は、この集団の指導担当者として、各方面から称賛された。

昭和四四年四月 鷹巣農業改良普及所森吉支所に勤務し、森吉町、阿仁町、上小阿仁村農家の農業指導を担当。

全県に先駆けて機械田植え稲作に取り組み、栽培技術の検討を進めた。

昭和四五年 研修のため農林省福島種畜牧場へ派遣された。

昭和四六年四月 能代農業改良普及所に勤務し、二ツ井町と藤里町農家の農業指導を担当した後、能代土地改良事業による農地造成地域の稲及び畑作物の栽培技術確立に当たる。

その後、機械田植え用稚苗及び中苗の育苗技術の確立に努め、特に現在普遍化している稚苗の畑方式無加温育苗技術を、昭和四八年に県内最初に確立した。

また、昭和四七年から昭和四八年にかけて二ツ井町富根地区を中心に、水稲のササニシキ栽培技術を確立し、急速に栽培面積を拡大させ、良質米生産に成果を上げた。

昭和四九年から昭和五一年新規開田地帯における稲作技術の確立に取り組み、県内ではそれまで技術実証されていなかった「開田赤枯病」の防除策を確立した。

昭和五二年四月 主任に任命される。

昭和五三年四月 鷹巣農業改良普及所に勤務し、鷹巣町を主体に管内一円の農家を対象に水稲及び畑作物指導を担当。鷹巣町の水稲は中苗主体であったが、赴任当時は中苗らしい中苗がほとんど見られず、苗質が非常に悪かったので、専ら育苗技術の向上に努め成果を上げた。高冷地における水稲の側条施肥栽培に取り組み、冷害に強い稲作技術の確立にも努めた。

昭和五六年から昭和五七年には、現在も使われている「北秋田地方稲作指導指針」を編集し各方面から称賛される。

昭和五七年四月 大館農業改良普及所に勤務し、大館市の農業の稲作及び畑作物の指導を担当。

主査に任命される。

昭和五七年から昭和五九年、大館市も稲の育苗技術が悪く、育苗技術の改善に力を入れ、技術実証圃の設置などにより育苗技術の改善に成果を上げた。

昭和五七年から昭和六一年、市内七ケ所の育苗センターの技術改善に取り組み、健苗育成と合理的な育苗センターの運営についても成果を上げる。

昭和五八年から昭和六〇年、水稲育苗ハウスで水稲の育苗後、野菜などの栽培を可能にし、多面的利用を図るため、水稲育苗技術の改善に取り組み、新しい中苗の育苗技術を開発した。

昭和五八年、難防除水田雑草シズイの防除技術確立。

昭和五八年、六〇アールの小麦栽培展示圃を設置し、指導した結果、秋田県最高の一〇アール当たり578.5キログラムの収量を上げ、担当農家が秋田県優良麦作り推進会議で特別賞を受賞した。

昭和五七年から昭和六一年、水稲の側条施肥栽培に取り組み、栽培技術の確立と指導に努めた結果、管内の普及率が全県一となった。

昭和六〇年から昭和六一年、農家の後継者を対象に、稲作技術の向上を目指し、夜学の「青年のための稲作講座」を開設し、年間七から八回の学習会を行うことにし、定員四〇名程度を目標にしたが、希望者がしだいに多くなり二年目は八〇名に達した。昭和六一年度秋田県改良普及職員実績発表大会で発表し、称賛された。

昭和六二年四月 鹿角農業改良普及所に勤務し、鹿角市、小坂町の農業の稲作及び畑作物の指導を担当。鹿角市はかつては米の多収穫地帯であったが、水田面積が少ないこともあり、稲作技術が低下し、収量も低下しているので、技術向上に全力を上げた。

昭和六三年から、稲作技術の向上を目指し、農業指導センターを通じて稲作技術情報「いね」を管内全農家に毎月一から二回配付しているが、その印刷原版を作成した。

昭和六一年まで、鹿角農業改良普及所で最も業務の多い作物担当普及員は三名であったが、現在は全県一二農業改良普及所中ただ一ケ所、担当者が原告一名に減員された。

平成四年四月 大館農業改良普及所所長補佐となる。

2 原告菅の職務と職務上の成果

昭和三三年三月 秋田短期大学商経科を卒業。

六月 秋田県仙北土木事務所に日々雇用職員(臨時職員)として勤務し、失業対策事業の経理事務を担当した。

昭和三四年四月 秋田県産業労働部職業安定課所属(仙北土木事務所駐在員)となり、失業対策事業事務補助員として、失業対策事業の経理事務を担当した。

この年から臨時職員管理要綱が制定され、臨時的任用職員となる。

昭和三六年四月 失業対策事業及び一般土木事業の経理事務を担当する。

昭和三七年一月 事務見習職員(定数内職員=正職員)となり、産業労働部職業安定課(仙北土木駐在)勤務を命ぜられる。

五月 主事補試験に合格する。

七月 主事補(行政職)の発令を受ける。

八月 土地改良部耕地課へ転勤する。災害係で工事経理、補助金経理事務を担当する。

昭和三八年八月 行政職上級昇任試験に合格する。

一〇月 事務吏員に任命。主事発令。

昭和三九年四月 土木部皆瀬ダム管理事務所へ転勤する。

皆瀬ダム管理事務所では事務職員の増員を要望しなかったとして、二年間担当職務が与えられなかった。

昭和四一年五月 国有財産・物品管理、経理事務及び用地補償事務を担当し、建設省所管治水特別会計所属国有財産の五年に一度の評価替えを秋田県で初めて行い、先輩ダムである鎧畑ダムへ応援指導に行き、秋田県の評価替えの総括を完成させた。

昭和四六年五月 農政部蚕業試験場へ転勤する。

蚕業試験場に代わり開所される蚕業指導センターの庁舎新築、用地買収を担当し、事務職員でありながら場長の命により、新庁舎敷地となる桑畑の抜根、整地工事、ボーリング工事、水中ポンプ設置工事、洗浄地・消毒池設置工事、外溝工事、焼却炉設置工場等の設計・施工監理・工事経理を行い、新庁舎を完成させた。

昭和四七年四月 蚕業指導センター勤務となる。

庁舎新築に伴う設備・備品・試験研究機器・購入予算を主管から獲得し、中学校の理科室程度と酷評されていた試験室等を試験研究機関らしく整備したため職員及び関係者から大いに感謝された。

昭和四八年四月 仙北土木事務所に転勤し、用地課管理係で許認可事務を担当する。

昭和四九年四月 用地課用地係へ配置替えとなり、用地買収・補償事務を担当する。

昭和五〇年一〇月 用地課管理係へ配置替えとなり、許認可事務を担当し、許認可事務の全県的な書式の統一提案等、先進的に管理事務処理の整備に努めた。また、五市町村にわたる用地買収・補償業務を計画どおり完了させ、全県の用地担当職員で初めて建物移転の調査・積算を行い普及させた。

昭和五三年四月 主任に任命される。

一一月 永年勤続(二〇年)表彰を受ける。

昭和五五年四月 船川港湾事務所に転勤し、管理課管理係で主に用地補償を担当し、長年の懸案であった港湾計画に基づく秋田造船鉄工株式会社と秋田海陸運送株式会社造船部門の移転補償を完了させて、港湾関係官庁団地の造成に寄与した。

昭和五八年四月 秋田土木事務所へ転勤し、用地専門員に任命され、用地課用地係で用地買収・補償業務を担当する。

一〇月 永年勤続(二五年)表彰を受ける。

秋田土木事務所在任中には、一〇数年来難航していた県道秋田男鹿線(男鹿市脇本バイパス)の用地買収・補償を完了させ、開通させた。県道秋田岩見船岡線(手形陸橋拡幅)、一級河川旭川河川改良(秋田市有楽町護岸工事)、一級河川草生津川改良など最も困難な箇所を担当し、昼夜を分かたず用地買収・補償交渉を行いすべて計画どおり完了させた。

また、自己の担当業務のほか、用地業務の新人職員を指導教育し、男鹿市職員研修会で補償理論について講義・指導し、管内市町村の補償業務の指導、補償物件調査の受託業者の指導もした。

昭和六一年一二月 秋田都市計画事業秋操駅南地区土地区画整理審議委員となる(秋田市特別公務員、任期五年)。

昭和六三年一〇月 永年勤続(三〇年)表彰を受ける。

平成二年四月 由利土木事務所に転勤する(用地専門員)。

用地課用地係で若手職員の用地買収・補償業務の指導・育成、及び市町村の補償業務の指導を行う。

平成四年四月 秋田土木事務所都市計画課長補佐となる。

五 差別意思について(争点四の1)

1 県職労内における主流派と反主流派

(一) 昭和三〇年小畑勇二郎が県知事に当選した(以下「小畑知事」という。)。当時、被告は、赤字財政であったことから、小畑知事は、赤字解消のため、退職勧奨で五〇〇人の職員を人員整理した。県職労の当時の執行部は、反主流派に属し、小畑知事の右方針に反対した。

また、小畑知事は、低賃金の職員で行政需要に対応するため多数の臨時職員を採用したが、県職労は、昭和三二年から臨時職員の正職員化と定数内職員の待遇改善を求めて職場闘争を展開し、昭和三七年三月に臨時職員の正職員化を実現し、更に給与改善、昇格基準の改正などにより、東北各県の上位にランク付けされる給与水準を獲得するなど画期的な成果を納めた。

(二) 小畑知事は、こうした県職労の闘いに嫌悪感を抱き、県職労の御用組合化を狙い、当局支持の役員(主流派に属する人)を多数当選させようと企て、昭和三五年の本部役員選挙に職制機構を使い種々の工作を弄したが、選挙では当局支持の役員は過半数には達しなかった。

昭和三六年四月、県職労の幹部三名が、同年二月に小畑知事と知事公舎で団体交渉を行ったことが、法律に違反するという疑いで逮捕された(県政共闘事件)。四月は県職労の本部役員選挙が行われる月であり、右逮捕は政治的意図で行われたものである。県当局は、職制機構を使って本部役員選挙に介入し、当時の中心的幹部の数名が落選した。

昭和三七年の本部役員選挙には、当局に支持された主流派の候補者が、役員定数の一五名立候補したため、反主流派も一五名を立候補させ、全面対決となったが、当局に支持された候補者一五名が当選し、それまで少数派であった主流派が多数派に、多数派であった反主流派が少数派となった。その後も、当局は、県職労の一層の弱体化を目指し、本部支部を問わず毎年の役員選挙において職制機構を使った執拗な選挙介入を行う一方、反主流派に属する原告ら組合員には人事異動や昇任昇格差別攻撃を展開し、反主流派の組合員を当選させないようにしてきた。

2 不当労働行為を示す「報告文書」(甲二)について

(一) 右の労働組合への県当局の介入の中でも、昭和四六年五月の本部役員選挙における雄勝支部にかかわる雄勝財務事務所長から総務部人事課宛の「報告文書」は、県当局が当時から組合の主流派・反主流派の存在及びその所属組合員の氏名を十分認識していたほか、更には主流派の勝利のための対策も地方部局と本部との間で謀議されていたことを示すものとして重要な内部文書である。

同「報告文書」には、①組合内に主流派と反主流派が存在することを明確に認識していたこと、②雄勝支部に所属していた原告菅が反主流派に属して選挙活動していたことなど、個人名で派の所属を明確に把握していたこと、③主流派は管理者(職制)と数度にわたって情報交換をはかり、主流派勝利のための具体的選挙支援を行っていたこと、④反主流派の個々の活動を監視していたこと、⑤反主流派の動向を「若い青婦人層への浸透を図るもの」と分析までして、今後の主流派の方針分析まで示していることなどが記載されていた。

(二) この「報告文書」に関する当時の県議会における小畑知事答弁は、かかる「報告文書」は人事課に現在保管されていないとする一方で、その「報告文書」が存在していた事実については否定せず、「私は御指摘の文書の内容を見ましたが、確かに行き過ぎの点がある。こう思いますので、この点においては反省すべき点は反省をいたし、今後このようなことのないよう十分に気をつけてまいりたい、かように考えております。」と答弁している。また、この「報告文書」については、日本共産党秋田県委員会と小畑知事との間の文書往信の中でも何度にもわたり、小畑知事は「行き過ぎの点が認められる。」「行き過ぎのあったことに遺憾の意を表し」などと、「報告文書」の内容を否定することなく、むしろそれを前提に(但し、知事らによる指示を否定するだけ)陳謝している。更に、新聞報道では、当時の総務部長Aは「同事務所以外からも電話、文書で同種の報告を集めた事実はある。」とし、かかる不当労働行為が雄勝財務事務所だけでないことを告白し、また、当時の人事課長Bは「C所長の文書を受け取った覚えはある。当時は特別気にかけなかったが、いまにして思えば組合介入のふしもあり好ましくない内容と思う。」とし、当時のC雄勝財務事務所長は雄勝支部に対し、同「報告文書」の記載内容を認め、これについて謝罪と再びかかる不当な介入をしない旨の約束を具体的項目毎に確約している。

県当局関係者は、いずれも同「報告文書」の内容を一切否定することなく、これを前提にコメントしており、県当局自身が不当労働行為が行われたことを認めていた。

(三) 以上のごとく、この「報告文書」が示す、県当局の労働組合に対する対応は、被告の人事課、総務部という労務管理に携わる頂点の部局が係わったものであり、単に一地方部局の勇み足として不問にできるものでないこと、しかも、雄勝財務事務所のみならず他の地方部局も参画した極めて組織的かつ計画的なものであったこと等からして、本事件以降証憑類を残したり部外に暴露されないように相当の警戒と配慮がされるようになったとはいえ、総務部・人事課の以後の代にも引き継がれ、継続的に反主流派に対する差別を続けてきたことは間違いない。このことは、その後反主流派に属する原告ら組合員の昇任・昇格が著しい遅れを増すことはあっても回復されなかったことからも十分推定できることである。

3 県当局が反主流派の存在することを認識していたことについて

横手農業改良普及事務所のD(反主流派)が、休田を利用したレンゲ(赤)、麦(緑)、菜種(黄)を植えて農地の生産性を高める三色運動を、同事務所を小畑知事が訪問した際に提言したところ、小畑知事は、にっこり笑って「それはそうだ、いや、ところで、君、その三色運動はいいけれども、赤だけじゃだめだよ。」とからかい、反主流派であることに託つけて冗談を言っていた。これは「反主流派」イコール「アカ」という形で、反主流派を認識していたことの証左である。

また、昭和三〇年代後半において県職労本部の役員選挙で主流派・反主流派がそれぞれ一五名ずつ対立候補を立てて選挙を戦っていたことが何年か続いていたことから、現在五〇歳代ぐらいの職員であれば、誰が反主流派に属していたかは十分に認識していることである。

反主流派は、少数派となった以降も反主流派の活動として、県職労の中央執行委員への立候補活動、あるいは、県当局と県職労とが一体となり遂行したいわゆる「県庁ぐるみ選挙」を告発する活動を旺盛に展開した。こうした活動を県当局が知らないはずがない。

4 反主流派への不当差別

(一) 県当局は、更に県職労の組織を弱体化するため、県当局を指示する組合役員を特別昇任させる一方、組合員の立場に立って活動してきた反主流派の本部や支部の役員経験者に対し、ミサイル人事と呼ばれる、単身赴任・遠距離配転を行うとともに、徹底した昇任差別による陰湿な報復人事を行い、組合員に対し県当局、県職労の方針に逆らえばこうなるのだという見せしめにしてきた。したがって、如何に県民に信頼され、如何に有能な職員であっても、県職労の方針に反対すれば、県当局から、極端に昇任差別され、同時に給与も低く抑えられてきた。

県当局によるこうした差別は小畑知事の時代から始まったものであるが、小畑知事の副知事であった現在の佐々木喜久治知事(如何「佐々木知事」という。)になっても、まったく変らずに引き継がれている。

(二) 反主流派の組合員は、昇任等において悉く差別を受けてきた。これを別表五秋田県職労主流派・反主流派の役職の比較でみると、反主流派は、執行委員の経歴のある五―7は退職まで主事で退職時に主任に発令されたにとどまり、副委員長と自治労本部の経歴のある五―10は主任のまま退職するなど、ほとんどが主任、主査どまりであるのに対して、主流派は、課長、参事、所長等高位の職位で定年退職していることが分かる。

また、県職員として、数少ない理学博士という博士号を取得している反主流派のEは、沖縄県からの招聘により主任で途中退職し、沖縄県の農業試験場の昆虫研究所の室長に大抜擢され、現在ではミバエの研究等で世界的に著名な権威者となっている。反主流派のFも農学博士を取得していたが、教え子が課長でその下で働かなければならないという昇任差別がされていた。原告らと同じく反主流派に属し活動をしてきたG、H、I、J、K、Lも、同期職員らと比較して、いずれもその昇任が遅れている。被告が、一貫した人事政策に基づき原告らを含む反主流派職員に対し不当な差別的取扱いをしてきたことは明らかである。

昇任の選考にはその職員の能力、資格、実績はほとんど考慮されず、組合活動でどの派で活動していたかこそが最大の分水嶺だったと言っても過言ではない。

(三) 某所属長が反主流派の職員を昇任推せん者名簿に記載して提出したところ、当該名簿作成者である所属長自身が職務上の不利益を受けたことがあったため、各所属長が、自主規制的自己防衛の措置として、最初から、反主流派職員は昇任推せん者名簿には載せないということが行われている。

(四) 県当局の組合員の立場に立って活動してきた反主流派の幹部や活動家に対する不当な人事差別の目的は、県職労を完全に御用組合化し、組合員の要求を当局に代わって抑え込み、安上がりの県政を推進することである。かつて、東北の上位まで引き上げた県職員の賃金は、再び低く抑えられ、現在は全国で沖縄県に次いで下から第二位である。

5 原告松村の組合活動経歴

昭和三五年 県職労秋田支部青年婦人部常任委員

青年婦人部の先頭に立ち、県職労の分裂阻止や安保反対闘争に参加。

昭和三六年 北秋田支部青年婦人部長となる。

昭和三七年から昭和三八年

北秋田支部執行委員、鷹巣地区労執行委員となり、北秋田支部組合員の給与不均衡是正等の要求前進と、臨時職員の手当獲得闘争を推進した。

昭和三九年から昭和四〇年

山本支部執行委員、自治労山本郡連協執行委員となり、山本支部組合員の退職勧奨阻止や、その他要求前進に努力した。

昭和四一年 大館支部普及所分会分会長となる。

昭和四二年 大館支部書記長に立候補し二票差で落選した。

昭和四三年 大館支部副支部長、大館地区労執行委員となる。

昭和四六年 山本支部支部長に立候補し一〇票差で落選した。

昭和四八年 県職労中央執行委員に立候補し落選した。

昭和四九年 県職労中央執行委員に立候補し落選した。

機関紙の発行、仲間の役員選挙の支援を行いながら、県職労の民主化のため奮闘してきている。

昭和四九年一二月 小畑知事のそれまでの県内各地の市長及び町長選挙における県職員を使った選挙介入と、昭和五〇年四月の知事選を目指し、県職労を使い、県職員を半ば強制的に後援会に加入させ、県庁ぐるみ選挙を進めていることに対し、有志二三名と「地方自治と、民主主義を守る県職員の会」を組織し、県庁ぐるみ選挙の内部告発をする旨の声明を発表した。

6 原告菅の組合活動経歴

昭和三四年 土庸会(仙北支部土木分会の臨時職員の自主的組織、当時の参加者七四名)書記長として、臨時職員の要求の組織化及び職場の民主化に努め、臨時職員に対する初めての夏季・年末手当支給に貢献した。

昭和三五年から昭和三七年

仙北支部土木分会書記長、仙北支部臨時職員対策協議会会長、本部臨時職員対策協議会副会長、仙北支部青年婦人部長、仙北支部書記長代理、大曲地区労働組合協議会執行委員となる。

臨時職員の賃上げをはじめとする待遇改善と定数繰入(正職員化)活動を先進的に行い、臨時職員の定数化に貢献した。青年婦人部では組合活動の理論学習活動及び文化活動に取り組み、組合の民主的運営とその発展に努めた。

組合の分裂に伴い、支部の書記長が脱退したため臨時的に書記長代理を努め、支部を支えた。

真に組合員の立場に立つ民主的な支部運営を訴えて支部書記長に立候補したが、組合本部と当局の職制機構を使った猛烈な選挙干渉により九票差で落選した。

昭和三九年 結婚(四月二〇日)を目前にしていたのに、土地改良部耕地課から土木部皆瀬ダム管理事務所へ、四月一日付けで不当配転させられる。県職労本部の苦情処理委員会にその撤回を求めて当局と交渉するように申請したが、県職労は何らの理由を示さず取り上げなかった。

昭和三九年から昭和四五年

雄勝支部皆瀬ダム分会書記長、分会長となる。

組合未加入の職員を説得して組合に加入してもらうとともに、分会を結成して僻地勤務による諸要求を前進させた。

昭和四一年から昭和四七年

雄勝支部蚕業指導センター分会長となり、同センター庁舎新築に伴う諸要求の前進と、退職勧奨阻止など職場の民主化に努めた。

また、執行部が組合員の要求へ真剣に取り組むことと、支部の民主的な運営を訴えて、雄勝支部執行委員・同副支部長に立候補したが、管理職を中心とする職制機構の選挙干渉のため落選させられ続けた。

昭和四八年から昭和五三年

組合員の立場に立つ統一執行部の形成を訴えて仙北支部書記長に立候補したが、全県から動員された当局側活動家と職制機構を使った選挙干渉などにより、落選させられ続けた。

昭和四五年から昭和五三年

組合の当局からの独立、真に組合員の立場に立つ執行部の確立、真に統一された執行部の確立、組合の民主的な運営、県庁ぐるみ選挙反対などのスローガンを掲げて県職労本部中央執行委員に立候補し、全県の職場をまわり組合員に訴えたが、当局の徹底した締めつけと選挙干渉によって落選させられ続けた。

この間、雄勝支部の菅幸臣後援会の活動と投票分析、今後の対策を雄勝財務事務所長が人事課に報告した文書が暴露され、当局の陰険悪質な選挙干渉の一端が明らかになった。

昭和四九年一二月 県職労は、昭和五〇年四月の秋田県知事選挙で小畑知事を推薦し、組合員を半ば強制的に後援会に加入させる署名を行わせたため、これに対し、組合員有志二四名連名で、その中止を申し入れたが拒否された。

その後、記者会見を行い、内部告発声明を発表し、「地方自治と民主主義を守る県職員の会」を結成して、組合員や各労働組合・民主団体に呼びかけて県庁ぐるみ選挙を止めさせるよう活動を行った。

7 被告は、原告らの昇任の遅れの原因について立証せず、被告申請証人も原告らの昇任の遅れの原因についての証言を拒否している。これは、原告らの昇任の遅れの理由が組合活動を理由としたものであるためである。

8 以上、被告の差別意思は明確であり、それは三〇年余にもわたって今日まで系統的に保持されてきたものである。

六 差別意思と原告らにおける格差との因果関係について(争点四の2)

原告らは、これまで何らの懲戒処分等を受けたことも職務上の非違行為の前歴も全く無く、右のように県職員として模範ともいえるほど誠心誠意勤務に精励し、職員としての実績はむしろ高く評価されてしかるべきであり、同期中位者と比較して何らの遜色もなくそれ以上の能力と実績を有するものである。

したがって、原告らが昇進・昇格が遅れた理由は、被告が、原告らが県職労の反主流派に属することを理由に差別したこと以外にはない。

七 県知事の処遇の違法性について(争点四)

1 県知事の原告らに対する昇任・昇格の処遇は、反主流派に対する差別意思に基づき、人事査定によって原告らが他の同期中位者との間において著しい格差を合理的理由なく生じさせたものである。

2 原告松村は、平成四年四月一日付けで所長補佐に昇任したが、原告松村の所属長は、その前年まで原告松村を「昇任推せん者名簿」に二年連続登載しかつ「重点要望事項」にも記載して昇任を推挙したが、県知事は原告松村を昇任させなかった。平成四年度の異動については、原告松村が本件訴訟を提起したことから所属長は、県当局に裁判を起こした者を推挙するわけにはいかないとして、「昇任推せん者名簿」から外したところ、相反して県知事は、原告松村を所長補佐に昇任させた。

訴訟提起前、原告らを所属長は何度か昇任推挙してきたが、これらは悉く無視され、その後推挙がないまま県知事が訴訟提起後に昇任させた人事権の行使には明らかに恣意が存在する。即ち、訴訟提起前は、差別意思をもって、所属長の推挙にもかかわらず原告らの昇任を据え置いていたが、訴訟提起される段になると、余りに著しい格差を隠蔽すべく多少の是正を余儀なくされ、所属長の推挙はなかったが、県知事の独自の判断で昇任させたとしか考えられないからである(訴訟提起効果)。

3 以上のとおり、県知事の人事の裁量権行使には、原告らに対し差別意思をもって昇任昇格させなかった濫用があり、違法性は明らかである。

八 損害について(争点五)

1 昇任と昇格との関係

昇任と昇格とは異なった概念ではあるが、昇任と昇格は完全に連動している。平成三年当時原告らの職務級は七級であったが、別表「行政職給料表昇格基準」に照らせば、六級から七級に昇格するためには、所長補佐の場合には「六級在級年数二年以上で、六級二二号給の一二月経過以上の者」であり、他方主査の場合は「六級在級年数二年以上で、六級二三号給の一二月経過以上の者」とされており、この限りで昇任と昇格は連動している。更に、現在は、昇任に伴う「特別昇給制度」により、昇任することにより、一号昇給することになっている。

2 原告松村の損害

差額賃金相当額 一七七万二六〇七円

県知事は、遅くとも昭和六一年までには原告松村を同期中位者と同様に所長補佐に昇任させるべきであったところ、差別的取扱により全く昇任させなかったので、別表三原告松村の差別賃金損害額一覧表のとおり昭和六一年から平成六年までの昇任昇格させれば得たであろう賃金相当額から現実に得た賃金額を差し引いた差額である一七七万二六〇七円が本件差別による賃金差額相当額の損害である。

慰謝料 三〇〇万円

県知事は、原告らに対し、長年にわたる著しい差別的取扱によってその生活を破壊し精神的打撃を加え続けてきた。原告松村は単に経済的打撃を受けたのみならず、すべて人間は個人として尊重され労働者としても自ら職務上の実績に見合った正当な評価と待遇を受けたいという当然の要求も踏みにじられてきた。昇任・昇格という人事差別は、経済的のみならず、精神的打撃も深刻である。すなわち、人事差別は、原告松村に対し社会的に劣った人間であるとのレッテルを貼り付け、原告松村とその家族まで屈辱を強いる効果をもっている。労働者の職場における格付けは、具体的には机の並びと序列、指揮命令関係と年功歴、県民との直接の接触の場における対人関係等々の社会的評価に直結するものであり、労働者とその家族に言い知れぬ深い心の痛手を与える。まさに、原告松村は、著しくその社会的名誉と信用を傷つけられ、人間の尊厳を侵害され続けてきた。給与上の具体的損害以外に精神的苦痛を慰謝するための慰謝料請求が認められるのは当然である。

弁護士費用 三〇万円

合計 五〇七万二六〇七円

3 原告菅の損害

差額賃金相当額 六六九万六九〇三円

県知事は、遅くとも昭和六一年までには原告菅を同期中位者と同様に次長(出先機関)若しくは主席課長補佐(本庁)に昇任昇格させるべきであったところ、差別的取扱により、昭和五七年以降係長相当級から全く昇任させなかったので、別表四原告菅の差別賃金損害額一覧表のとおり昭和六一年から平成六年までの昇任昇格させれば得たであろう賃金相当額から現実に得た賃金額を差し引いた差額である六六九万六九〇三円が本件差別による賃金差額相当額の損害である。

慰謝料 三〇〇万円

前記原告松村と同一事情である。

弁護士費用 六〇万円

合計 一〇二九万六九〇三円

別紙被告の主張

一 県知事の裁量権と違法性(争点一)

1 毎年度実施される人事異動(「昇任」は、人事異動の代表的なものである。)は、適材適所を実現し、組織の活力を維持するために実施するものである。これは、公務能率の維持向上のために、任命権者に職員人事に関し広汎な裁量権が与えられていることから可能となるものであり、任命権者にとって最も重要な仕事となっている。

また、組織がピラミッド状であることから職位が上がれば上がるほどポストが少なくなること、職が課長補佐級以上になるにつれ、その職務の複雑性、困難性も増大していくことから、その職に昇任させる者の選考も一層複雑、困難になるということに鑑み、職員の課長補佐級以上の職への昇任については、任命権者に広汎な裁量権が付与されているといえる。人事委員会規則上も、課長補佐以上に相当する職への昇任について選考を実施する権限が任命権者である県知事に委任されている。

そして、県知事は、地方公務員法一五条の任命の基準に関する規定、任用規則二九条の選考の基準に関する規定の趣旨を踏まえ、職員の経歴、学歴、知識、資格、能力、適性、勤務実績等の各要素及び組織管理上の諸要素(当該年度における退職等による職員の職の欠員状況、職場や担当部門における職員の職の構成、各種施策の内容や事務量等)を総合的に勘案し、昇任の適否を判断しているところ、昇任候補となる職員は、職の上位、下位を問わず共通して求められる能力(協調性、誠実さ、向上心、実行力等)を前提としたうえで、その職に特に求められる能力(職が上位に向かうほど企画力、判断力、統率力、調整力、組織管理力等の創造的能力が強く求められ、下位に向かうほど実務的能力が求められる。)があると認められた者であり、一定の勤務期間が経過したとか、同期職員の中に昇任にふさわしい者がいるためその横並びでという理由で昇任候補になるものではない。

昇任させるかは、必然的に総合的な観点からの選考が必要となってくるものであるため、その職に必要とされる能力を満たしていない職員はもちろんのこと、必要とされる能力を満たした職員であっても、他の職員との比較からその職に就けないという事態も生ずることとなるが、このような事態も県知事の裁量権の範囲内である。

2 昇格については、給与規則別表第二の級別資格基準表に定める資格基準を満たしていることが必要であるが、地方公務員法二三条に規定する職階制が現在まだ採用されず、したがって、同法二五条四項に規定する職階制に適合する給料表に関する計画が実施されていない被告において、行政職給料表昇格基準等は、あくまでも級別資格基準表等に基づき、昇格に必要な最低限の基準を定めたものであり、この基準を満たしたからといって必ず昇格できるものでもなければ、昇格が保証されるものでもないから、当然に昇格する権利というものも存在しない。昇格させるかは、任命権者が右資格を有する職員の中から級別標準職務表の標準的職務内容に照らし、その職員の職務が昇格させる級の職務に相等しいものであるか否かを総合的に判断して決定するものであり、その決定は任命権者の裁量に委ねられているところである。

ただ、昇格は裁量行為であるとはいえ、実際には、一般職の職員の給与に関する条例、給与規則及び職務の級の決定基準について(総務部長通知)にその取り扱いが詳細に定められており、県知事は、その定めに基づいて厳正に昇格に関する事務を処理している。従って、実際の昇格に関しては、任命権者の裁量権は極めて狭いものであり、自由裁量による差別的な取り扱いを行う余地はない。

3 原告らは、主張する昇任・昇格の遅れを、県知事の故意過失による不法行為として捉えているが、不法行為の要件事実に関する主張・立証責任は、不法行為であることを主張する原告側にあるから、原告らにおいて、県知事の故意過失に基づく行為を具体的に主張、立証しなければならない。

それ故本件訴訟における原告らとしては、単に原告らが同じ養成期間の同期の卒業生あるいは上級一般事務昇任試験(現在行われていない)合格の同期職員に比べて昇任が遅れているという外形的な格差の存在を明らかにするだけでは足りず、その格差が県知事のいかなる故意過失の行為によって生じたかを具体的に主張、立証する必要がある。訴外職員との安易な比較による外形的昇任格差に関し、差別によるものとか、人事に関する裁量権の濫用だとか、抽象的な主張を行うだけで県知事の故意過失による不法行為を推定することは許されない。従って、被告は、県知事が人事に関する広汎な裁量権に基づいて職員に対し昇任を実施していることから、原告らが同学歴又は同資格の職員と比較してこのような点で劣っているとか、あるいは反対に比べられた職員が原告らよりこのような点で優れているとかを、逐一主張、立証する必要はない。被告は、原告らが主張する格差の存在とそれが県知事の故意過失に基づくものであると主張する原告らの具体的な請求原因事実を争えば足り、自分から進んで格差の存在が正当であったことまで主張、立証する必要はない。

二 格差の有無(争点二)

1 原告松村に対する昇任・昇格格差について

(一) 原告松村は、秋田県立農業講習所の同期(六期生)の卒業生ないしは同窓生との比較において、昇任・昇格に格差があると主張する。

しかし、同じ大学や養成機関等の同期の卒業生であっても、県の採用年次が異なっている例は多く(原告松村の同期の卒業生間でも採用がもっとも早い者と遅い者の間には五年七月の差がある。)、昇任・昇格は大部分同時に行われてはいない。別表一原告松村の同期職員(秋田県立農業講習所六期生)の昇任状況一覧表から、原告松村の昇任が遅れているか否かを比較判断することはできない。

また、原告松村の同期卒業生七名の職員の内、原告らが反主流派のため昇任が遅れたと主張している原告松村及び一―5の両名を除いたその余の五名の昇任経過を見ても、すでに最初の技師への昇任時期が最も早い者と最も遅い者とでは、五年の格差が生じている。のみならず、同期のうえ採用年次が全く同じ三名の昇任時期を比べてみると、最初の技師への昇任年月ですでに三年の隔たりがあり、主任には一旦三名同時に昇任したものの、主査への昇任で一年、所長補佐への昇任では実に七年という大きな格差が生じており、原告松村の昇任が他の者と比較して格差があるともいえない。

(二) 同窓生との比較において、原告らが、健康障害者であるため主査に止まっているとする六―24外四名は、健康上の問題があったことは事実である(但し、その程度はそれぞれ異なる。)が、平成三年四月一日時点で主査であるのは、健康上の理由のみではなく、人事の管理運営上の総合的な判断に基づくものであり、現に健康障害者であっても、主査より上位の職の職員は多数存在している。

また、懲戒処分を受けた者であっても、昇任の選考に当たっては、一定の期間、良好に勤務した者については、他の職員と区別することなく、選考の対象としている。

(三) 原告松村は、昇格も著しく遅れていると主張するが、何と比較して遅れているのか不明である。

原告松村は昭和六四年一月一日に、行政職給料表六級二三号給に昇給後三月経過した平成元年四月一日に七級二〇号給に昇格したが、同日に六級二三号給(六級二二号給に昇給した後一二月経過した者も含む。)から七級に昇格した職員は、原告松村の外に三六名いるが、その中には課長補佐級の職員一九名が含まれている。また、七級昇格者の内、原告松村と同じように六級二三号給昇給後三月経過で七級に昇格した職員は六名いるが、原告松村を除く五名は課長補佐級の職員である。また、原告らが昇格が上と主張する六―30の行政職給料表七級への昇格は平成元年四月一日であり、原告松村と同時であり、原告松村の昇格が一〇年も遅れていると比較した農業講習所一五期の県職員の職務の級は、全員が原告松村より下位の行政職給料表六級であり、現在の職務級が七級である同原告より昇格が早いとは言えない。したがって、原告松村の七級昇格が課長補佐級の他の職員より遅れているわけではない。

2 原告菅に対する昇任・昇格格差について

原告菅は、主事への昇任までは格差がなかったとするが、主任以上への職への昇任は昭和三八年第一一回県職員上級一般事務昇任試験同期合格者との比較において格差があるとする。

しかし、当該試験は、主事補から主事に昇任する際の資格試験であり、試験合格後の発令で主事に昇任しない場合は別として、その後の昇任までをも同一に取り扱わなければならないものではない。学歴を同じくしあるいは同じ資格試験に合格したからといって、職員の能力が等質であるとは到底言い得ず、むしろ、職員の能力に著しい差異があるからこそ、被告においては、毎年の定期異動に際し、職員の能力を公平厳正に査定し、適材適所の職員配置を行っているのである。

3 県知事は、原告らの昇任・昇格について、法令等の規定及び所定の手続きに基づいて厳正に行っており、本件訴訟提起時における原告らの職・給与の当該号給は原告らにとって妥当なものであり、原告らと他の職員との比較によっても原告らに格差はない。

三 原告らの勤務実績等について(争点三)

1 原告松村の勤務実績について

原告松村は、被告主催の「七五〇キログラム集団褒賞制度」での賞金二〇〇万円を獲得した比内町向田農事研究会の指導実績を自己の業績として挙げているが、比内町向田農事研究会は設立以来一〇年にも及ぶ技術の蓄積があり、同原告が係わる前年(昭和四二年)の向田農事研究会の収穫量は一〇アール当たり既に六九九キロのレベルに達し、当時既に稲作りについて相当のレベルに達していたということができる。原告松村が比内町担当の普及員として、向田農事研究会の七五〇キロどりに一年間関与したことは事実としても、それが同研究会の七五〇キロどりにどの程度貢献したかは、不明瞭である。

原告らは原告松村の業績として、能代地区国営総合農地開発事業地域における「開田赤枯病」の防除対策を確立したと主張する。しかし、原告松村は、昭和四九年度から同五一年度までの三年間能代地区国営総合農地開発事業地域における水稲の技術実証を行い、特に同五一年から「開田赤枯病」に関する仕事を始め、色々資料を集める中で同五二年頃に岩手大学の渡辺教授の「ヨウ素毒症説」を発見し、それを基礎に改善対策に取り組み、秋田県内では初めて技術実証に成功し、その成果をまとめて同五二年三月に地域営農推進の方向として執筆したと主張しているものであるところ、昭和五二年に「ヨウ素毒症説」を発見したのでは改善対策及び技術実証を行う時間はないこととなる。また、同五二年三月時点で既に「開田赤枯病」の原因はヨウ素であると一般的に認められていたのであり、原告松村が埋もれていた「ヨウ素毒症説」を見つけだし技術実証したという原告らの主張は、原告松村の業務実績をことさら誇示しようとするものである。

原告らは「雑草・シズイ防除法の発見と確立」に原告松村の貢献があったと主張しているが、被告の農業試験場や青森県の農業試験場においても研究が行われており、特に青森県の農業試験場では初期の除草法を確立していたとはいえ、原告松村一人の業績とすることはできないものである。

原告主張の原告松村の職務上の業績について、ほぼ認めるものの、原告松村の業績として列記しているものは、農業改良普及員であれば、通常行わなければならない程度のものでしかなく、その職務の遂行にあたっては、チームを組むなどして複数の職員で行っているのが通常であり、また、必ず上司の指示・監督のもとで行っているのであるから、その職務上の成果は原告松村個人にのみ帰するものではない。

2 原告菅の勤務成績

原告菅の経歴、職務内容については、皆瀬ダム管理事務所では二年間担当職務を与えられなかったという点は否認し(同事務所庶務係に配置された。)、その余は認める。

しかし、原告菅は、平成六年秋田県用地対策連絡会で表彰されたことを実績として挙げているが、この表彰制度は、平成四年度に制定され、同五年度から実施された制度であるところ、表彰対象者は、一〇年以上の用地補償経験を有する者で四五才以上の者と同連絡会の内規により定められているのであって、原告菅もこの内規に合致したことから表彰されたに過ぎないのであり、これをもって、業務上特別顕著な功績があったという理由にはならない。

また、秋田都市計画事業秋操駅南地区土地区画整理審議委員となったことも業績として挙げているが、原告菅が同審議委員となったのは、対象土地の所有権者としてであり、県職員としての職務とは無関係であり、これをもって、「職務の実績は高く評されるべきである。」というのは失当である。

更に、原告菅の掲げる職務上の成果もチームを組むなどして複数の職員で行っているが通常であり、原告菅個人に帰するものではない。

四 差別意思について(争点四の1)

1 原告らは、小畑知事が初当選したときから、県当局の県職労に対する支配介入が始まったと主張しているが、県当局が、県職労に対する支配介入を行ったことはない。

また、県職労内部の問題については、何ら関知しないが、当時の社会労働情勢からすれば、次のように分析される。

すなわち、昭和三〇年代半ばの県職労は、三井三池炭鉱におけるストライキや日米安保条約改定反対闘争を契機とした労働界の実力行使による闘争方針の高まりを受け、組合活動としての経済闘争における要求貫徹のための手段として、当局との話し合いの姿勢というよりも、実力行使による全面対決姿勢を採った。

それが、一九五九年(昭和三四年)の独自要求闘争(八日間の座り込み戦術)やいわゆる「県政共闘事件」(知事公舎への乱入)といった形になって顕在化し、その結果、独自要求闘争に係わった組合員の大量処分及び県政共闘事件に係わった組合員の逮捕・失職といった事態にまで進展するなど、その闘争方針はエスカレートしていった。

こうしたことから、一部組合員の間に執行部について行けないといった声が上がりはじめ、これが県職刷新連盟の結成、県職労からの大量脱退等へと進展していったものである。

したがって、小畑知事就任以降当局が県職員労働組合の御用化を図るため種々の工作を弄し、その最たるものが県職労への分裂攻撃だったとする原告らの分析は大局を見誤った主張であり、被告が積極的に県職労の御用組合化を意図し、さまざまな工作を行い、その結果原告らが反主流派になったという原告らの主張は、まったく的を得ていない。

2 「報告文書」について

「報告文書」に関し、「行き過ぎがあった」として知事等県幹部が遺憾の意を表明したことは、不当な干渉ととられかねない行為に対する反省と今後疑惑を招く行為は決して行わないという決意の表明であり、県職労の活動に不当介入したことを認める趣旨ではない。

また、「報告文書」は、昭和四六年のことであるが、当時、県職労からも抗議を受け、県当局は、遺憾の意を表明しており、その後、これに類することは発生していない。

3 反主流派の存在についての認識

県職労の加入率は平成二年六月一日現在87.4パーセントであり、非組合員は約六〇〇名となるが、県当局は非組合員の氏名は全く把握していないし、また加入しているとしてどの派に属するのかについては、まったく把握しておらず、職員を非組合員と組合員、主流派と反主流派に区別したことはない。

原告ら主張の小畑知事のDに対する発言が仮にあったとしても、それは、単に一般的な意味としての「赤」を揶揄したに過ぎず、小畑知事の反主流派を意識した発言とは言えない。

また、主流派か反主流派かの区別の認識に関し、原告側申請の証人Mは、五〇歳代の職員であれば、誰が反主流派に属しているか認識している旨証言しているが、同証人は、県当局の同証人に対する待遇に不満を持っていた者であり、同証人の証言は信憑性に欠けるものである。

4 反主流派に対する不当差別について

(一) 秋田県は面積が広く、県の地方機関が各地域に点在していること、職員に幅広い行政経験を積ませる必要があることなどから、本庁と地方機関との人事交流には特に力を入れてきており、単身赴任や遠距離通勤も自ずと多くならざるを得ないのが実情であり、反主流派であることを理由に単身赴任等を命じたことはない。

また、原告菅は、昭和三九年四月二〇日の結婚式直前の四月一日付けで遠隔地に不当に配転され、六年間にわたって妻や家族と別居を強いられたと主張する。確かに、原告菅は、昭和三九年四月一日付けで、それまでの勤務地秋田市から雄勝郡皆瀬村の土木部所管皆瀬ダム管理事務所へ転勤を命じられている。しかし、この転勤は、同事務所の新設に伴う措置であって、県職員のうちの誰かが勤務しなければならなかった。したがって、原告菅を除く他の職員九名も皆転勤により同事務所勤務となったものであり、原告菅とは異なり、いずれも組合における活動歴が全くない職員であることからみて、原告菅の主張する「ミサイル人事」などは存在しないのであって、組合活動に対する差別的な転勤とは到底いえないところである。

すなわち、同事務所発足当時の職員の転勤状況は、次のとおりである。

職名

氏名

前任地(職)

前任地における居住地

所  長

a

雄勝土木事務所長

本荘市

庶務係長

b

雄勝土木事務所

湯沢市

庶務係員

c

仙北土木事務所

大曲市

庶務係員

菅幸臣

耕地課災害復旧係

秋田市

庶務係員

d

国の皆瀬ダム建設事務所

十文字町

管理係長

e

山本土木事務所

能代市

管理係員

f

由利土木事務所

秋田市

管理係員

g

鎧熕ダム管理事務所

平鹿町

管理係員

h

鎧熕ダム管理事務所

田沢湖町

管理係員

i

雄勝土木事務所

大森町

(二) 原告らは、退職時の役職からして、主流派に属するものは、反主流派とは正反対に出世していると主張するが、個々人の退職時役職は、当該人に対して行ってきた人事異動(昇任)に際しての総合的な評価の積み重ねによるものであり、これをもって、県知事が原告らを人事差別してきたと主張することは当たらない。また、被告を退職した職員の退職時役職は、かなりのバラツキがあるが、これは、上位の職に行くに従いその数が少なくなるピラミッド型の組織機構の中では当然に出てくる現象であり、退職時の役職のみをもって、不当な人事差別が行われている旨主張することは意味がない。

原告らは、Eは、反主流派に属していたため冷遇されたが、秋田県職員を退職し、沖縄県職員となってからは、沖縄県の農業試験場の昆虫研究所の室長に大抜擢され、現在ではミバエの研究等で世界的に著名な権威者となっていると主張するが、被告の調査によると、Eが大抜擢されたという沖縄県農業試験場ミバエ研究室長は、当時部下三名の係長級の職で、もちろん管理職手当も支給されない職である。また、Eの秋田県職員退職時点での給料月額は研究職給料表二等級一七号給で二三八、三〇〇円であったが、沖縄県職員になってからの給料月額は研究職給料表二等級一九号給二四八、一〇〇円であり、一万円弱の昇給にしかなっていない。したがって、被告から反主流派ゆえに昇任・昇格において差別されたと主張する状況と、沖縄県職員となった後の状況とは殆ど変化は見られず、原告らの主張は失当である。

(三) 県当局は、昇任推せん者名簿は全職員を対象として選考するようにしており、所属長が反主流派に属する者を昇任推せん者名簿に記載したとしても、そのことをもって、所属長に対して職務上の不利益を与えるはずがない。

(四) 県職員の給与は人事委員会の勧告に基づき決定するもので、これまでほぼ完全に実施してきている。また、待遇改善についても、県当局は県職労との間で誠意ある交渉を行い、毎年度一定の前進をみている。県職労が御用組合化され、県職労が県に代わって県職員の賃金を低く抑えているということはない。

なお、平成二年四月一日現在の県職員の給与水準は、一般行政職の職員についてラスパイレス指数でみれば原告ら主張のとおりであるが、同職員の平均給料月額でみれば全国で上から第三位である。

5 県知事には、原告らが反主流派に属しているという認識はないし、職員団体の正当な活動を行った者を敢えて差別したこともない。

県知事は、地方公務員法一三条に定める平等取扱の原則、同法一五条に定める成績主義の原則及び同法五六条に定める不利益取扱の禁止の原則を十分に認識しており、原告らが主張するような差別意思はまったくない。

五 因果関係について(争点四の2)

県知事が昇任を決定する際は、職員の勤務実績、性格、能力及び適性等だけではなく、組織のポストの制約等をも総合的に勘案し決定しているのであり、本訴訟提起時の原告らの職には合理的な理由がある。

被告が昇格を決定する際は、法令等の規定に従い厳正に決定しているのであり、原告らの昇格の経過には合理的な理由がある。

六 県知事の原告らに対する処遇の違法性について(争点四)

1 原告らは、同期卒業、同期合格者の中位にあるものとの比較において、格差があると主張する。しかし、原告らは、具体的に、誰をもって中位者と位置付けるのか何ら明らかにせず、かつ、その中位にある者との勤務実績、性格、能力及び適性等に関して比較検証を何一つ行っていない。原告の主張する比較の方法は、その中位にある者との個別の比較ではなく、過去の自己の業績を羅列するに過ぎない。原告松村が当然に昭和六一年までになっているべきだったと主張する地方機関の所長補佐及び原告菅が同年までになっているべきだったと主張する地方機関の次長又は本庁の主席課長補佐になるべき能力、資格等を有している者は多数おり、その中から選考されるのであるから、ただ単に自己の過去の業績を示すのではなく、だれとの比較においてどの点が優れているかといったことについて、原告らは詳細に明らかにする必要がある。しかし、そうした主張・立証は一切なされていない。

2 また、原告らは、原告松村が「昇任推せん者名簿」に二年連続登載され、推挙されたが、その間昇任がならず、本件訴訟提起後、所属長が原告松村を「昇任推せん者名簿」から外したところ、県知事は原告松村を所長補佐に昇任させたとして、恣意的な人事権が行われていたと主張するが、平成四年四月に原告松村が昇任したのは、人事課の所属長に対するヒアリング、それまでの原告松村の昇任推薦の状況、組織管理上の養成等を総合的に勘案した結果であり、決して「訴訟提起効果」などというものではない。

3 県知事は、地公法一三条に定める平等取扱の原則、同法一五条に定める成績主義の原則及び同法五六条に定める不利益取扱の禁止の原則を踏まえ、厳正に昇任管理を行っており、恣意的な要素の入り込む余地はない。原告らのこれまでの昇任経過は、職員の人事に関する任命権者の広汎な裁量権の適正な行使として行われてきた人事異動の積み重ねの結果である。そこには、原告らが主張するような意図的な昇任差別は何ら存しない。

七 損害について(争点五)

1 給与決定については、地方公務員法の規定に基づき、職務と責任に応じて厳格に決定されるべきものであり、原告松村に対しては、その職務(主査)を考慮すれば七給格付けは至当であり、毎年の定期昇給も行っているところである。したがって、現行給料額は正当なものであり、同原告に差額賃金及び慰謝料請求権は生じない。

原告松村は主査であることから所長補佐等である職員より一年昇格が遅れていると主張するが、被告県の給与制度は、職務給の原則を採用しており、原告松村が上位の役職にある職員より昇格が遅れたとしても仕方のないことであり、これをもって原告らが差別であると主張することは失当である。

原告菅の給料も、その職務(用地専門員)を考慮すれば七級格付けは至当であり、また毎年の定期昇給も行っているところであり、現行給料月額は正当なものであり、同原告に差額賃金及び慰謝料請求権が生じる余地はない。

2 なお、原告は、昇任と昇格とは完全に連動していると主張しているが、例えば、主任の職で職務の級が五級に決定されている者が、その後主査に昇任したことのみをもって六級に昇格する訳ではないし、同様に、主査の職で職務の級が六級に決定されている者が、その後所長補佐に昇任したことのみをもって七級に昇格する訳ではないのであり、それぞれの役職及び職務の級毎に定められている昇格基準に適合して初めて上位の職務の級へ昇格できるのである。しかしながら、任命権者が定める昇格基準が、役職の在職年数と職務の級の在級年数等で構成されていることからすれば、当該役職への昇任の時期と昇格基準を満たすこととなる時期が関連するものであることは、職務給の原則から当然のことであり、何ら否定するものではない。

3 原告ら主張の別表三、四差別賃金損害一覧表には、給与制度上数々の誤りがある。

(一) 原告松村について

(1) 昭和六一年四月一日所長補佐に昇任したと仮定すれば、その時の給料は六級二一号給になるというのが原告松村の請求の出発点となっている。

原告松村は、昭和六〇年四月一日三等級二〇号給、同年七月一日六級一九号給となっている。給与条例五条六項で、定期昇給は「一二月を下らない期間を良好な成績で勤務したときは、一号給上位の号給に昇給させることができる」と規定されているが、同年七月一日以降の最初の昇給に限っては、同日付けで行政職給料表がそれまでの八等級制から現行の一一級制へ切替えられ、切替後の級、号給及び次期昇給期については、給与条例の改正附則によってその取扱が定められたが、それらによれば、昭和六〇年四月一日発令済の三等級二〇号給は、同年七月一日付けで六級一九号給に切替えられ、また切替前の号給を受けていた三月間が切替後の号給を受けている期間に通算されることとなるから、六級一九号給を受けた後、九月経過する同六一年四月一日で一二月経過相当となり、一号給上位の六級二〇号給に昇給することとなる。したがって、昭和六一年四月一日で六級二一号給となるという原告松村の主張は、定期昇給で得られる号給よりも更に一号上の号給ということになるが、そのためには、同日付けで定期昇給のほかに給与条例五条七項及び給与規則三八条による一号(一二月短縮)の特別昇給が併せ行われる以外にはないことになる。当時、原告松村に適用が可能な特別昇給は、課長補佐昇任特別昇給が考えられる。しかし、この特別昇給の制度は昭和六一年四月一日現在の時点では三月の昇給短縮であるから、これを適用したとしても、六級二一号給の昇給は同六二年一月一日となるに過ぎず、昭和六一年四月一日の時点で六級二一号給になることはあり得ない。

(2) 原告松村は、昭和六一年四月一日に六級二一号給を受けた後、同年一〇月一日に六級二二号給になると主張する。

しかしながら、定期昇給は、一二月経過が原則であるし、課長補佐昇任時特別昇給は一回限りのものであり、適用の余地はない。その他の昇給短縮として、永年勤続(二〇年)特別昇給が一応考えられるが、この特別昇給を適用したとしても三月短縮だけであり、昭和六一年一〇月一日時点で六級二二号給に昇給することはあり得ない。

(3) 原告松村は、昭和六一年一〇月一日六級二二号給を受けた後、一二月経過の昭和六二年一〇月一日には昇格して七級一九号給になると主張する。

しかしながら、所長補佐の職務にある者が六級から七級に昇格する場合の昇格基準は、同六二年当時にあっては所長補佐在職八年又は六級二三号給(一号下位読替え後の号給)一二月経過である。原告松村はいずれの基準も満たしておらず、七級への昇格はあり得ない。

(4) 原告松村は、昭和六三年一〇月一日七級二〇号給を受けた後、三月経過の昭和六四年一月一日に七級二一号給へ昇給すると主張する。

この昇給期間九月短縮については、課長補佐在職者に係る勤務評定による特別昇給(以下「課長補佐勤務評定特別昇給」という。)が考えられるが、昭和九年四月二日以降に生まれの職員については平成元年四月一日から実施されたものであるから、昭和一〇年三月二〇日生まれの原告松村には、昭和六四年一月一日時点での適用はない。

また、課長補佐勤務評定特別昇給(九月短縮)は、従来の課長補佐昇任時特別昇給(三月短縮)を受けた者にのみ適用し、現行の課長補佐昇任時特別昇給(一二月短縮)を適用された者との均衡を図るために、昭和六三年四月一日以降から実施されたものであるから、原告松村が主張する昭和六一年四月一日の一二月短縮が現行の課長補佐昇任時特別昇給であれば、課長補佐勤務評定特別昇給(九月)が重ねて適用されることはあり得ない。

(5) 原告松村は、平成五年四月一日に所長昇進したと仮定し、その給与を所長昇進三短+在調九短で計一二月短縮としている。

給与規則三八条は特別昇給を定め、人事委員会が指定する職に昇進した場合特別昇給できることになっており、それには課長補佐の他に、より上位の職務の一つとして本庁課長相当が指定され三月の昇給短縮が行われているが、農業改良普及所の所長は特別昇給できるものとして人事委員会が指定した職務とはなっていないので、昇給短縮が適用されることはあり得ない。

(6) 期末・勤勉手当の支給月数や、発令済みの給料月額と原告松村が主張する給料月額との差額の算定、管理職手当の支給割合に誤りがある。

(7) また、管理職手当支給対象職員には、時間外勤務手当は支給されないので、管理職手当を支給されることになると主張する期間、すなわち平成四年四月一日以降に現実に支給を受けた時間外勤務手当額は、原告松村主張の損害額から減算すべきである。

(二) 原告菅について

(1) 原告菅は、昭和六三年四月一日六級二〇号給を受けた後、三月経過の同年七月一日六級二一号給(次期昇給期を九月短縮)になると主張する。

これには、課長補佐勤務評定特別昇給が考えられるが、この特別昇給については昭和九年四月二日以降生まれの職員については、平成元年四月一日から実施されたものであるから、昭和一二年生まれの原告菅には、昭和六三年四月一日時点での適用はあり得ない。

(2) 原告菅は、昭和六三年七月一日六級二一号給を受けた後、六月経過の昭和六四年一月一日六級二二号給になると主張する。

永年勤続(三〇年)特別昇給が一応考えられるが、この特別昇給を適用したとしても三月短縮であり、残り三月を短縮する特別昇給の根拠はない。

(3) 原告菅は、昭和六四年一月一日六級二二号給を受けた後、三月経過の平成元年四月一日六級二三号給になると主張する。当時の特別昇給制度に照らせば、課長補佐勤務評定特別昇給(九月短縮)が考えられるが、原告菅が主張する昭和六三年七月一日六級二一号給への昇給の際の九月短縮が、課長補佐勤務評定特別昇給を根拠とするものであれば、この特別昇給は一回限り実施されるものであるから、重ねて適用されることはあり得ず、したがって、平成元年四月一日に適用される特別昇給はない。

(4) 原告菅は、平成三年七月一日七級枠外一号給を受けた後、六月経過の平成四年一月一日七級枠外二号給になり、更に三月後の同年四月一日七級枠外三号給になると主張するがいずれについても根拠となる特別昇給は存在しない。

(5) 期末・勤勉手当の支給月数や、発令済みの給料月額と原告菅が主張する給料月額との差額の算定に誤りがある。

(6) また、管理職手当支給対象職員には、時間外勤務手当は支給されないので、管理職手当を支給されることになると主張する期間・すなわち昭和六一年四月一日以降に現実に支給を受けた時間外勤務手当額は、原告菅主張の損害額から減算すべきである。

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